第八十一話幸せは好きの傍にある
彼が4年間過ごした仙台。
当時の仙台は、戦後間もない頃で、綺麗な並木道も、ひとびとが集うデパートもありません。
彼は『どくとるマンボウ青春記』にこうしるしています。
「いざやってきた仙台は、空爆で中心部があらかたやられていて、砂埃の多い、殺風景な、木の香りなどほとんどない、都会とも、田舎ともつかぬ場所であった」。
でも、北は、ここでの暮らしを満喫します。
大学の講義にはほとんど出ずに、昼は卓球をして、夜は仙台銀座で飲み歩きました。
街中には市電が走っていて、最初は乗り方にとまどったそうです。
仙台市電保存館には、今も、当時の市電が展示されています。
ケヤキ並木が美しい定禅寺通りも、北が大学に通っていた頃は、何もない、ただの広い道でした。
そんな風景も、やがて愛おしく思えてくるほど、彼にとって仙台という町は、決して忘れることができない大切な心のふるさとになったのです。
北杜夫は、躁うつ病を抱えていました。
それを隠さず、むしろその病状をユーモラスに描くことで、世間のイメージを変えたと言われています。
気性の激しい、歌人で医師の斎藤茂吉を父に持ち、船の医者として世界中をめぐるなど、ひとが容易に体験できないことをやってのけて、それを文章にしてきた、北杜夫。
彼が抱えた光と闇、そして明日へのyes!とは?
小説家にして精神科医・北杜夫は、1927年5月1日、東京・青山に生まれた。
父は、歌人として名をなした斎藤茂吉。父のもうひとつの顔は、青山脳病院の院長だった。
小学生時代の北は、病弱だった。性格も内向的で、運動が苦手。
5年生のときに、急性腎炎で3学期をまるまる休んだ。
勉強はなんとか追いついたが、体力は低下した。
彼自身、この休みでさらに性格がひねくれてしまったと振り返っている。
自分の存在に自信が持てない。その劣等感こそが彼に弱者に寄り添う心を育てた。
病の床で彼を慰めたのが、一冊の昆虫図鑑だった。
色鮮やかな虫たち。どうしてこんなにも多くの種類が必要なのか。
そんなことを考えているのかいないのか、彼らはひたすら自らの短い生を生き抜く。
何も言葉を発することもなく。
麻布中学に入ると、昆虫採集に熱をあげた。
青山墓地が遊び場だった。
昆虫図鑑を擦り切れるほど、読み込む。原色写真の形態は、暗記した。
名前も憶え、しまいにはラテン語名まで言えるようになった。
ファーブルのような昆虫学者になりたい。
そんな夢を抱き、長野県松本市の旧制松本高校に入学した。
そこで彼は衝撃的な出会いをする。
トーマス・マンという作家の『トニオ・クレーゲル』という作品だ。
文学に初めて触れ、初めて父の偉大さを知った。
「作家になりたい」。そう思うようになった。
たったひとことが人生を変えるときがある。たった一冊の本が、ひとの一生を左右することがある。
どくとるマンボウこと、作家の北杜夫は、父のいいつけを守り、医者になるべく宮城県仙台市の東北大学に通う。
でも、医者に興味が持てない。
ひたすら小説を読み、自分でも書いた。
さまざまな懸賞に応募する。それはことごとく落選。
やっとひとつだけ、詩が入選するが、その出版社がつぶれてしまい、日の目を見ることはなかった。
大学3年のとき、同人誌に小説が採用された。
このとき初めてペンネーム、北杜夫と名乗る。
大学を出ると、慶應義塾大学医学部神経内科教室に助手として入局。
「まあ、小説は売れそうもないし、しばらく医者をやっていようか」
軽い気持ちだった。
忙しい医局勤めの中、睡眠をけずり、執筆にあてた。
コツコツ、ただ書く。書いて書いて、書き続ける。
そのことでしか、自分が生きているという手ごたえが持てなかった。
30歳を過ぎて、ようやく芥川賞候補にまでなった。
でも、焦る。
「このままでいいのか、オレはすっかり老け込み、文学老年のような気がしてきた」。
人生の岐路。才能がないと思って、諦めるのか…。
でも彼は知っていた。
たった一度の人生を味わい尽くすには、好きなことを手放してはいけない。
北杜夫が、ようやく作家への突破口を開いたその年。
彼はなぜか、マグロ調査船「照洋丸」に、船の医者として乗り込むことを決める。
5か月にも及ぶ、航海。
アジア、アフリカ、ヨーロッパ。
熱帯の地で出会った、昆虫たちに狂喜乱舞した。
「少年時代に夢見て、穴が開くほど眺めた図鑑にのっている虫たちが、現実にそこにいる。あの色鮮やかな蝶が、目の前にいる。こんな幸せがあるだろうか!」
ドイツでは、自分の一生を変えたトーマス・マンの故郷を訪れた。
ドイツではのちに妻となる喜美子にも出会っている。
各地をめぐった体験は『どくとるマンボウ航海記』としてまとめられ、これがベストセラーになった。
ユーモア読み物の書き手という称号は彼に経済的な恩恵と、彼自身思ってもみなかった新境地を開いて見せた。
さらに戦争の悲劇を描いた『夜と霧の隅で』で、芥川賞を受賞。
軽妙なエッセイと純文学の両方で成功をおさめた。
その二つを書かせたもの、それは、彼の弱者に寄り添う心だった。
かつて病弱だった自分。劣等感にさいなまれ、しかも心の病を持っている自分。
その屈折を彼は優しさに変換した。
彼は、編集者にも「北先生」と呼ばせなかった。
「北さんと呼んでください」。そう告げた。
「先生なんて呼ばれるとね、自分が偉いって勘違いしてしまうからねえ」。
決していばらない。決してカッコつけない。
彼の文体そのものが、彼自身だった。
人生は、こちらが構えなければ、様々なメニューを用意してくれる。
あとはそれをゆっくり選び、味わい尽くせばいい。
彼のメッセージが聴こえてくる。
「焦らなくていい、何度でも、人生はやり直せる」。
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