第十二話闇の中の光
彼は、軽井沢をこよなく愛し、軽井沢ゴルフ倶楽部の常連でした。
スコアはシングルプレーヤー。作家仲間の中でもその実力は群を抜いていました。ハンデは、白洲次郎と同じ、3。
ある日のコンペでは、39、42の81。
それでも石川達三は悔しがっていたと言います。
ここに一葉の写真があります。
軽井沢の別荘のバルコニーでくつろぐ、石川の写真。
白いシャツに、ベージュのパンツ。
黒縁メガネの石川が照れたように笑っています。
テーブルの上には、スイーツ。まだ手をつけていません。
彼は別荘での生活をこんなふうに書きました。
「散歩道をつくって、ふろのたきぎをとったり、花をつんだりしています。鳥はうぐいす、かっこう、ほととぎす、かけす、あとはいろんな鳥がいるけど名前がわからないな。りす、きじなんかもいますよ。この家は気に入ったオルゴールの形に似せてあるんです」
作家、石川達三が見つめた、人生のyesとは?
作家、石川達三は、1905年7月2日、秋田県横手市に生まれた。父は、秋田県立横手中学の英語科の教員だった。
9歳のとき、母を亡くす。人生の理不尽、不条理に対面する。
甘えることを知らずに過ごした。
父は翌年、再婚する。いくつかの転居のち、早稲田大学に進む。
22歳のとき、大阪朝日新聞の懸賞小説に、入選した。
うれしかった。人生で初めて誰かに認められたような気がした。
大学を中退して、小説家になる夢をいだく。
いろんな出版社に原稿を持ち込んだ。でも、門前払い。あるいは、「すまんねえ、キミは、どうだろう、作家としてはねえ」
つっかえされた。
食べるために就職したが、結局、うまくいかない。
退職金をつぎこみ、ブラジルに渡ることにする。
移民船の監督官。自分を変えたかった。今いる自分を好きになりたかった。
神戸の移民収容所からは、戦前戦後を通じて、20万人のひとが南米に旅立った。
彼らは、別に日本を離れたかったわけではない。やむにやまれぬ理由があった。徴兵のがれ。貧しさからの脱却。
石川は、そんなひとびとの哀しさと、一縷(いちる)の希望を、自分の目に焼き付けた。
神戸港から旅立つ家族連れ。見送りなどない。先の保証もない。
それでも旅立たねばならぬ、ひとびとの、想い。
彼はその体験を小説にした。
船が行く海は、ほの暗い、いや、見渡す限り、海は、青々としている。
タイトルは・・・『蒼茫』。
1935年、作家、石川達三は、小説『蒼茫』で第一回芥川賞を受賞した。受賞を逃した太宰治は選考委員の川端康成に文句を言った。
石川は30歳。これからの作家人生に光が射した。
翌年、結婚。その後、社会批判をテーマにした作品を書いた。
1938年、『生きてゐる兵隊』が、新聞紙法に問われて、禁固処分を受ける。急に闇がやってきた。
「ただ、戦争の事実を書いただけだ」
石川の想いは、通じなかった。
その後も海軍報道班として、東南アジアを取材してまわった。
書くということ。作家の言葉への誇りは、失わなかった。
「私は社会派ではない。ただ、何が正しいか、あきらかにしたい
だけだ」
作家、石川達三は、『人間の壁』、『金環蝕』などの作品で、社会派作家としての地位を確立した。
軽井沢の別荘で過ごす時間が、至福のときだった。
ゴルフに熱中した。
作家、丹羽文雄と軽井沢ゴルフ倶楽部でプレーするのが好きだった。
ゴルフは、自己責任。ゴルフは、自分との闘い。そして、ゴルフには、弱い自分を見つめられる時間があった。
ひとの弱さを描くこと。そこに全てがあった。
たったひとつの出来事で堕ちていくひとを書くことで、警鐘を鳴らしたかった。
「人間は、強くない」。
だから強くありたいと願い、上にあがりたいと望む。
かつて観た神戸の港。
新天地ブラジルを目指したひとの想いを、思い出す。
彼らの目の光は、貧しさに弱かったけれど、決して、消えてはいなかった。
石川達三は、問う。
「今、自分の目は、ちゃんと光っているか」
本当の敵は、外にいるのではない。いつも、自分の中にいる。
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