第二百五十三話おのれの価値を高める
この駅のホームに電車が入ってくると、あるメロディが流れます。
それは、『荒城の月』。
作曲したのは、瀧廉太郎(たき・れんたろう)です。
瀧は幼い頃、父の仕事の都合で各地を転々としますが、竹田で過ごした時間は、彼にとって創作の礎をつくりました。
大分県竹田市の岡城が『荒城の月』作曲の着想につながったと言われ、城址には、瀧の銅像があります。
12歳から14歳まで過ごした屋敷は、瀧廉太郎記念館として残り、今も街の偉人として愛され続けています。
瀧は23歳の若さでこの世を去りますが、日本の音楽史において、日本独自の唱歌や童謡を最初に世に出した先駆者、革命児なのです。
彼は幼い頃から、どんなにいじめられ、世間から見放されても、ある信念を抱き、実践することで耐え抜くことができました。
それは、自分の価値を高めるということ。
そのための努力を惜しまないということ。
たったひとつでも一番になれるものを持っておけば、必ず一目置かれるようになる。
それは彼が転校するたびに感じたことでした。
音楽学校を首席で卒業しても、ピアニストで一番でなければ世の中に出ていけない。
作曲家になっても、ひとがやっていない奏法で一番になれなくては生きていけない。
いつしか、その思いは強迫観念のように彼を追いつめていったのかもしれません。
でも、そのおかげで彼の名は今も残り、私たちは彼の歌を口ずさんでいます。
亡くなる4ヶ月前に作曲したピアノ曲のタイトルは、りっしんべんに感じると書く、漢字一文字で『憾(うらみ)』。
まさにこれからというときに、結核でこの世を去るのは、どんな思いだったのでしょうか…。
終生、音楽に向き合い続けた作曲家・瀧廉太郎が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
『荒城の月』の作曲家として知られる瀧廉太郎は、1879年8月24日、東京市芝区、現在の東京都港区西新橋に生まれた。
廉太郎の父は九州・日出藩の家老で、明治新政府では大久保利通に仕える上級官吏だった。
役人としてエリート街道を進む厳格な父。
しかし、後ろ盾だった大久保利通が暗殺され、状況は一変。
廉太郎が3歳のときには、内務省から異動。
出世コースをはずれ、各地を転々とする失意の日々を過ごすことになった。
ただ、この各地をめぐるということが幼い廉太郎の感受性を育て、世の中の無常と悲哀を知ることにより、芸術的な世界へといざなった。
横浜に引っ越したとき、初めてバイオリンの音色を聴いた。
横浜には、西洋の楽器が多く出回っていたのだ。
富山では、天下の難所「親不知」の断崖絶壁から、荒れ狂う日本海を見た。
泣いた。怖かった。
大きな波に飲み込まれてしまいそうで、体中が震えた。
大分の竹田に向かう列車では、トンネルをくぐるとき、不思議な思いがした。
まるで別世界に入って行くような感覚。
周りを岩山に囲まれている豊後竹田は、どこから街に入るにしても必ずトンネルの暗闇を通らなくてはならない。
目の前が開けた瞬間、ふわっと体が宙に浮くように感じた。
世界は、光り輝いて見えた。
明治時代の作曲家・瀧廉太郎は、幼い頃、いじめられた。
転校が多く、いつもよそもの。
当時は子どもでメガネをかけているものが少なく、丸いメガネをかけていたのも特異な印象を与えた。
彼はひとり、独楽で遊んだ。
やりだしたらとことんやる。
手のひらにのせて回す技をやりすぎて、血だらけになってもやめなかった。
やがて、同級生たちにその技を見せると、形勢が一気に変わる。
みんなが独楽の回し方を教えてくれとせがんだ。
横笛もそうだった。
岡城の石垣に座り、ひとりで練習しているうちに誰よりもうまくなり、みんなから尊敬された。
「そうか、どんなものでも一番になれば、みんながボクを認めてくれるんだ」
高等小学校4年生のとき、音楽室からオルガンの音色が聴こえた。
誰も弾けなかったオルガンを見事に弾く先生が現れた。
後藤由男先生。
廊下に立ちすくんでいる瀧に、先生は言った。
「弾きたいのか? そうか、こっちにおいで。一緒に弾こう」
毎日毎日、後藤先生はオルガンを教えてくれた。
瀧はその音に魅了され、自分で奏でる楽しさを知った。
夕闇迫る放課後の音楽室で、少年の夢が育まれていった。
瀧廉太郎はわずか15歳で、東京音楽学校、現在の東京藝術大学に合格。
日本一のピアニストになるという青雲の志を持って上京した。
ちょうどそのころ、日本人初のヨーロッパ音楽留学生、幸田延が帰国。
瀧は、延から西洋音楽の手ほどきを受ける機会に恵まれた。
延の指導は厳しかったが、耐えた。
やればやるほど、自分が高みにあがるような手ごたえがあった。
しかし…16歳のとき、衝撃的な出来事があった。
延の妹、幸田幸がウィーンから帰国。
そのピアノ演奏を聴いたとき、愕然とした。
「す、すごい…かなわない…なんだ、この演奏は…」
これでは、日本一のピアニストにはとてもなれない…。
そのころ瀧は、作曲でも評価されていた。
当時の唱歌は、西洋の音楽に無理やり日本語の歌詞をあてはめたものばかり。
日本独自の歌がつくれないものか…。
明治の唱歌や童謡は、ヨナ抜き音階が原則だった。
ドレミファソラシドのうち、ファとシを使わないことで日本的な音色を出していた。
でも瀧は、そこに疑問を持つ。
せっかくある音は、全部使いたい。
そうして出来上がった楽曲に、童謡の『花』がある。
今度は、作曲家で一番になってみせる…
結局、志半ばで…結核にかかってしまう。
寝床に身を横たえながらも、作曲の手を休めることはなかった。
享年23歳。
117年経った今も、彼の音楽は日本のどこかで鳴り響いている。
【ON AIR LIST】
憾 / 瀧廉太郎(作曲)、小川典子(ピアノ)
荒城の月 / 瀧廉太郎(作曲)、新垣勉
メヌエット / 瀧廉太郎(作曲)、小川典子(ピアノ)
秋の月 / 瀧廉太郎(作詞・作曲)、鮫島有美子(ソプラノ)
花 / 瀧廉太郎(作曲)、クロスロード・レディース・アンサンブル
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