第百七話志をつなぐということ
生誕の場所には現在、大手家電量販店の本店が建っていますが、三重吉への敬意を表し、壁面にここが生誕の地であるというプレートが飾られています。
さらに原爆ドームの近くには、彼の文学碑があり、彫像の左肩には、小さな鳥がのっています。
『赤い鳥』は、彼が後半生の魂を込めた文学史に残る児童文学雑誌。
彼は、夢の翼を持った赤い鳥、すなわち、若き才能のある作家たちを大切にしました。
芥川龍之介の『蜘蛛の糸』、有島武郎の『一房の葡萄』、新美南吉の『ごんぎつね』も、三重吉の『赤い鳥』がなかったら、この世に生まれてはいなかったでしょう。
自分自身も小説を書き、名作を産みだしたにもかかわらず、ある時期に筆を折り、後進の発掘に全てを賭けた鈴木三重吉。
彼は、世の中とうまく相対することができず、心を病み、身体を壊すことを繰り返しました。
彼の作品にはこんな一節があります。
「どんな人でも孤独を感じる。孤独と必死で闘おうとする執念を持ち続けることこそ、生きる意味を感じさせる。そこに、生きることの喜びを感じるのだろう」。
立ち上がっては倒れ、倒れては立ち上がり続けた孤高の作家。
虚無と絶望の淵にあった彼を激励し、鼓舞したのが、文豪、夏目漱石でした。
三重吉は、漱石がいなかったら、自分はこの世に生きてはいないと思いました。
だからこそ、彼にはやらねばならぬ人生の一大事業があったのです。
児童文学者、鈴木三重吉が、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
日本児童文学の父、鈴木三重吉は、1882年9月29日、広島市に生まれた。
生まれたときから、身体が弱く、母がいつも付きっ切りで看病してくれた。
でも、9歳のとき、母はこの世を去る。
人生は無情で救いがないことを、肌身で感じた。
熱を出した三重吉に、母が寄り添って聞かせてくれた昔話だけが、唯一の心のよりどころだった。
成績は優秀だったが、同級生になじめない自分がいた。
作文は得意で、15歳のときに母のことを書いた『亡母を慕う』が、「少年倶楽部」に掲載される。
ペンネームを使い、童話も書いた。次々に採用。
自分には、書く力があるのかもしれないと思った。
でも、やはり世間との溝は大きい。埋まらない。
この世に生きていていいのか、わからない。
そんな中、帝国大学の英文科に入学。
そこで、運命の扉が開く。
ある講義を受けて、身体が震えるほど、感銘を受けた。
その講義をしたひとこそ、まだ小説を発表する前の、夏目漱石だった。
児童文学者・鈴木三重吉は、上京して東京帝国大学に入学したが、最初に待っていたのは、失望だった。
汚い教室。ガタガタの机。かび臭い廊下。
「これが憧れの学び舎なのか?」
まわりの学生や教師たちは、そんな有様を見て、いっこうに気にならない様子だ。
おまけに最初の登校日に履いていた下駄を盗まれた。
袴姿に、ズックのカバンを持った三重吉は、戸惑った。
さらに西洋人の先生も、どこか胡散臭い。
まるで教養が感じられず、その先生から英文学を学ぶのが、どこか侮辱されているように感じた。
ところが、ある先生が教壇に立ったとき、「これだ、このひとだ!僕はこのひとに会うためにこの大学に入ったんだ!」と思える教師に出会う。
明らかに放つ光が違って見えた。
そのひとこそ、夏目漱石だった。
しかし、せっかくの向学心に、彼の心がついていかない。
高校時代から患っていた神経衰弱が再発。
家を出ると心臓が高鳴り、一歩も動けなくなる。
仕方なく、大学を休学。
当時の様子を三重吉は、こう振り返る。
「ガジガジした、だだ黒いものが心にうごめき、一日も心が平穏なときはなく、始終、病に脅かされていた。渋いような暗い気分の中に腐るように閉ざされて、赤身をこすられるような、イライラした自分ばかりを見て来た。いっそ命を絶とうかと思った」。
彼は広島県に戻った。広島湾の能美島で静養することになる。
田舎の掘っ立て小屋での、さみしいひとり暮らし。
彼は最後にすがる思いで、知人を通して、夏目漱石先生に手紙を書いた。
ほとんど期待はしていなかったが、数日後、返事がきた。
うれしかった。
おまえはそこに生きていていいんだと、初めて誰かに認めてもらったような気持ちになった。
大学を休学した鈴木三重吉が、広島県の能美島で静養している頃、漱石は最初の小説、『吾輩は猫である』を発表した。
三重吉は、漱石の小説を読んでさらに尊敬の念を強くした。
そんな作家として地位を確立しつつある漱石からの手紙。
三重吉さん ちょっと申し上げます。
君は僕の胃の病の心配をして、治してやりたいとおっしゃる、その親切心は有り難いが、僕より君の神経のほうが大事ですよ。
早く治して来年は大学にお出でなさい。
僕の胃病はまだ休養するほどではないですが、来年あたりは君と入れ代わりに休講してみたいものです。
大学の教師だとか講師だとか、いろいろ言って評判をしてくれますが、一向、有り難くありません。
僕の理想を言えば、学校へは出ないで週に一回学生諸君を呼んで御馳走をして冗談を言って遊びたいのです。
君は島に渡ったそうですね。
何かそれを材料にして写生文か小説のようなものを書いてご覧なさい。
文章は書く種さえあれば、誰でも書けるものだと思います。
そうそう、三重吉さん 先生は、よそうじゃありませんか。
もう少し、ぞんざいに手紙をお書きなさい。
漱石の心のこもった手紙。
もしかしたら、自身の病の辛さをシンクロさせていたのかもしれない。
三重吉にとって、漱石に手紙を書いているときだけが、生きている瞬間だった。
やがて、彼は漱石の助言どおり、島の暮らしを一篇の小説にする。
『千鳥』。
この作品を漱石は大絶賛して、当時の文芸雑誌の最高峰『ホトトギス』に推薦。掲載が決まった。
ようやく自分の居場所を見つけた三重吉は、書くことで自分を保つことができた。
「いつか、自分にとっての漱石先生のような存在になれたら…」
そんな三重吉の祈りにも似た願いは、『赤い鳥』という雑誌の創刊につながった。
どこの馬の骨ともわからぬ自分に丁寧に接してくれた漱石への感謝の気持ちを、後からやってくる若い作家に注いだ。
こうして鈴木三重吉は、希望という名の赤い鳥を育て続けた。
【ON AIR LIST】
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青春の光と影 / Joni Mitchell
Talking To The Moon / Bruno Mars
一日の終わりに / ハナレグミ
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