第百六十九話魂を込める
明治時代、まだ琴や三味線、長唄などの邦楽が盛んだったときに、さらに日本女性の世界進出が珍しい時勢の中、日本一のピアニストとして音楽の都・ウィーンでの演奏を果たしたからです。
しかし彼女は、異国の地で自らの命を絶ってしまいます。
世界で通用するかどうかの挑戦のさなかの哀しい出来事でした。
久野の演奏はすごかったといいます。
ある評論家は、言いました。
「彼女の弾くベートーベンは、歌うかわりに怒っていた。彼女の演奏を聴くと、泣きたくなった。それは演奏の中に、あまりに純真な彼女の魂が現れるからだ」
さらに彼女の友人は、こんなふうに語ったそうです。
「久野久ほど、芸術に対して純粋で熱烈なひとに会ったことがない。彼女には芸術が全てだった」
久野の演奏を聴いた作家の有島武郎の言葉は、「演者の熱情も技術も、原作者を大してはずかしめないものだったように、謹んで聴いた」というものでした。
彼女は、とにかく練習しました。
指先がぱっくり割れて、鍵盤が血に染まっても、練習をやめなかったという逸話が残っています。
髪を振り乱して、かんざしを飛ばし、着物は着崩れ、汗がほとばしる。
鬼気迫る彼女の演奏は、いったい何のため、誰のためだったのでしょうか。
ただ少しでもうまくなりたかった、自分に少しでもyesを言いたかった…それだけなのかもしれません。
でも、ほとんど日本人などいない音楽の聖地で、たったひとり、日本を背負って戦いを挑んだ女性がいたことは、まぎれもない事実です。
誰も歩いていない道を歩く。それは必ず、「いばらの道」。
日本人ピアニストの草分け、久野久が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
日本最初のピアニストと言われる久野久は、1886年、明治19年12月24日に滋賀県に生まれた。
家は質屋を営み、裕福だった。
近江商人の血をひく父は、大地主。
ただ、一説によればそうとうな高利貸しで、ひとびとの反感をかうこともあったという。
久野は幼い頃、女中に連れられて近くの神社に散歩をしているとき、石段から落ちる。
大けがだった。
このときの処置が適当でなかったからか、久野の足は、満足に動かなくなった。
大きく体を揺らさないと、前に進めない。
近所の子どもにバカにされた。
家業への周囲の恨みも重なり、いじめは執拗だった。傷ついた。
「自分は他のひとと同じように生きていけないんじゃないか」
「自分は、生きていてもいいんだろうか」
不安になった。久野は人前に出るのが恐くなった。
経済的には何不自由ない暮らし。
でも、一家には暗い影がさしていた。
さらに追い打ちをかけるように、両親が亡くなってしまう。
久野は、京都の叔父に預けられることになった。
こうして久野の人生に、新たな風が吹き込んできた。
日本最初のピアニストと言われる久野久は、叔父に、琴や三味線、長唄を習わせてもらった。
叔父は、足に障害を持つ久野を不憫に思い、将来生きていくために、芸を身につけさせようとしたのかもしれない。
久野は、音楽にのめり込んだ。
ひとが10練習すれば、100練習する。
ひとが休むなら、休まずおさらいをした。
腕はめきめき上達。
13歳で、師範の免状をもらった。
音楽なら、自分を思い切り表現できる。
音楽は、やればやるほどうまくなる。
不自由な体を忘れることができた。
当時、洋楽の文化が怒涛のように日本に押し寄せてきた。
叔父は、彼女の才能をさらに華開かせたいと願い、西洋音楽の専門校、東京音楽学校で学ばせようと思った。
合格した久野は、そこで運命的な師匠に出会う。
西洋音楽の第一人者、留学経験もある、幸田露伴の妹、幸田延だった。
幸田延は、久野のピアノに驚愕し、感動した。
彼女は新聞の音楽評にこう書いた。
「久野嬢のピアニストとしての光栄は、嬢の頭上に王冠のごとく輝きし、のみならず、最後の勝利者となること、疑いなし」
久野久は、東京音楽学校、現在の東京芸術大学に入学した頃から優秀だったわけではない。むしろ劣等生。
入学後、すぐに教授たちに呼ばれ、退学を命じられた。
「君には、無理だ」
そこで久野は、彼らの前で土下座したという。
「お願いします。後生ですから、続けさせてください!どうか、どうかお願いします!私には…私にはこれしかないんです!」
その迫力に教授たちは押され、様子をみることにした。
久野の激しい練習の日々が始まった。
真冬の練習室には、一晩中鍵盤を叩き続ける久野の姿があった。
手はかじかみ、体は寒さに震える。
それでも、彼女はピアノに向い続けた。
「私には、あとがない。生きていくには、これしかない」
なんとか学校に残ることを許された久野は、同級生からは奇異の目で見られた。
美しい容姿であるにも関わらず、身なりをかまわない。
起きているときはいつもピアノに向かい、ともすればピアノに突っ伏したまま寝てしまう。
友達も、仲間もいない。たったひとりで学内を歩いた。
足をひきずりながら。
そこからの彼女の上達や活躍はすさまじく、激しい演奏スタイルも相まって、名実ともに、国産ピアニスト第一号として世界制覇を嘱望されるようになる。
ただ、彼女はそれを望んでいたわけではない。
ある知人にこう手紙を書いた。
「私は西洋行きは望みませぬ。西洋にいかずに十分ニギレル自信とこのまま日本にいたいワガママがあります」
しかし、明治政府は彼女に、日本の文化を世界に知らしめるという使命を課した。
彼女に断るという選択肢などなかった。
誰かから絶賛され、頼られ、期待される人生がやってくることなど、思いもしなかった。
彼女は鍵盤を叩くことに、魂を込めた。
それが彼女の唯一、生きる証だった。
本当に大切なのは、賞賛でも評価でもない。
自分が本当に魂を込められるものに、出会えるかどうか。
久野久は、ベートーべンを弾いているとき、おそらく、幸せだったに違いない。
【ON AIR LIST】
フィリオ・ペルドゥート / サラ・ブライトマン
ピアノ・ソナタ 第8番「悲愴」第2楽章 / ベートーヴェン(作曲)、中村紘子(ピアノ)
ピアノ・ソナタ「月光」第3楽章 / ベートーヴェン(作曲)、久野久(ピアノ)
“It's For You” / 矢野顕子
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