第二百八十一話他人を敬う
上田利治(うえだ・としはる)。
広島カープでの選手時代は2年あまりと短く、しかも、ほとんど目立つことのない地味な存在でした。
その後、25歳で広島の二軍コーチに就任。
当時の日本プロ野球史上、最年少での大抜擢に野球ファンは驚いたと言います。
打撃コーチとして、山本浩二や衣笠祥雄を育て、阪急ブレーブスのヘッドコーチで手腕を発揮。
37歳の若さで、阪急ブレーブスの監督になります。
選手として無名だったひとが監督になるのは珍しい時代。
さまざまな逆風を跳ね返し、阪急、オリックス、日本ハムと監督を歴任し、5度のリーグ優勝と3度の日本一を果たし、名将の代名詞になりました。
選手時代もベンチに六法全書を持ち込み、ナポレオン・ボナパルトの著作を全て熟読するほどの読書家。
分析力、判断力に長け、戦術を駆使するクレバーな理論派の一方、選手たちを守るためには顔を真っ赤にして怒る熱血漢でした。
それを象徴するゲームが、昭和53年の日本シリーズ第7戦。
阪急3勝、ヤクルト3勝で迎えた最終決戦で、ヤクルトの大杉が放った打球は、レフトのポール際を通過。
判定はホームランでしたが、阪急の監督・上田はベンチを飛び出し、レフトの審判に駆け寄って猛抗議をしました。
「どこに目をつけとるんじゃ! スタンドのひとたちも、ファウルって言ってるじゃないか!!」
当時はもちろんビデオ判定などなく、一度下したジャッジがくつがえることは、皆無でした。
それでも、上田は引き下がりません。
選手たちをベンチに引き上げさせ、中断した時間は、前代未聞の1時間19分。
それは全て、選手たちのためでした。
「オレは、おまえたちを全身全霊で守る。だから安心して戦って来い!」
そんなメッセージだったのです。
なぜ無名だった選手が、伝説になったのか。
そこには他人にはうかがい知れない、たゆまぬ努力があったのです。
プロ野球の歴史に名を刻んだ徳島の英雄・上田利治が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
プロ野球の名監督としてその名を連ねる上田利治は、1937年1月18日、徳島県の最南端、海部郡宍喰町、現在の海陽町に生まれた。
美しい海を見ながら、少年時代を過ごす。
戦後の貧しさに、意気消沈した町を盛り上げようと、野球が盛んになった。
子どもたちは、こぞって学校の校庭でキャッチボールを始めた。
上田が小学4年生のとき、父がグローブを買ってくれた。
うれしかった。
夜は、枕の横にグローブを置いて眠る。
同級生に、山崎という男の子がいた。
速い球を投げる。誰もとれない。
ある日、上田が言った。
「ボク、キャッチャーやるよ。手加減しないで、投げていいよ」
最初はおそるおそる投げていた山崎が、つい本気で投げる。
ズバン! ちゃんと上田のグローブにおさまった。
「それでいいんだよ、これからは、ぜんぶ思い切り投げてよ」
山崎は、うれしかった。
彼等は中学でもバッテリーを組み、県大会で優勝。
チームをまとめたのは、上田だった。
彼は敵のバッターの癖を瞬時に読み取り、相手の弱点を突いた。
山崎が打たれ、頭に血がのぼっているときは、すぐにボールを返さず、サードに投げて、クールダウンの時間を作った。
上田は、山崎に駆け寄り、言った。
「ボクは、おまえみたいに速い球が投げられないから、おまえの速い球を守りたいんだ。大丈夫、自信を持って。誰もおまえの球は、打てない」
プロ野球の殿堂入りを果たした名監督、上田利治は、幼くして、自分の野球の実力を知っていた。
「将来、野球で食べていくほどの才能はないだろう」
高校に入り、チームを初の県大会決勝に導いても、己をわきまえる。
勉強を怠らず、常に成績はトップクラスだった。
3年生で野球部のキャプテンを務めたときは、生徒会の会長もやりつつ、首席。
睡眠時間は、4時間ほどだった。
叔父さんのように、弁護士になろうと思う。
関西大学の法学部に進む。
しかし、ここでも運命の出会いが彼の人生を変える。
大学の野球部に、のちに阪神タイガースのエースになる、村山実がいた。
小学生のときの山崎が、野球を続ける要因になったように、村山の球を受けているうちに、野球がやめられなくなる。
それほどまでに、村山の球は素晴らしかった。
ミットに滑り込むボールの凄さ。
この球を守りたい。そう、思った。
関西六大学リーグで4度の優勝を果たす。
プロから誘いがきたが、消極的だった。
「野球では、食えない」。
どんなにおだてられても、自分を見つめる目は冷静だった。
しかし、広島カープから「3、4年プレーしてダメなら東洋工業の社員に」と言われ、心が動く。
プロ野球に入るが、すぐに肩を壊し、2年あまりで引退した。
これからはフツウのサラリーマンとして生きていこうと思った矢先、コーチのオファーがやってきた。
上田利治の好きな言葉に、菊池寛(きくち・かん)のこんな言葉がある。
「人生は一番勝負なり。指し直すべからず」。
野球がとにかく好きだった。
でも、野球の才能がないことは知っていた。
何度も迷う。何度も悩む。
それでも上田が指標にしたのは、どんな世界に進んでも、自分にない才能を敬い、守る気持ちさえあれば、必ず活路はある、ということだった。
自分の実力をわきまえているからこそ、足が速い選手、打球を遠くに飛ばせる選手、そして、速い球を投げられる選手が、大好きだった。
尊敬した。
彼等を守る人間が必要なら、そのイチバンになろう。
上田は、自分のためではなく、心から敬う選手のために、1時間19分、抗議し続けた。
だから選手たちは、上田についていこうと一丸になった。
ひとは、思いで動くとき、最大の力を発揮する。
【ON AIR LIST】
My Brave Face / Paul McCartney
ええねん / ウルフルズ
HIT,GIT,QUIT,SPLIT / Jon Cleary
BASEBALL / Michael Franks
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