第二百八十話座った場所を王座にする
そのせき止めの有効成分、エフェドリンを発見した「日本薬学の父」と呼ばれる偉大な薬学者がいます。
長井長義(ながい・ながよし)。
徳島藩の医者の家系に生まれ、1871年、第一回国費留学生としてドイツで学んだ長井は、諸外国に遅れをとっていた化学、薬学の発展に尽力しました。
徳島に生まれ、徳島を生涯愛した彼は、徳島大学薬学部への支援やユニークな教育施設など、後進の育成にも貢献し、ドイツ人の妻・テレーゼと共に、女子教育にも力を注ぎました。
設立した日本女子大学の「香雪化学館」からは、日本初の女性薬学博士・鈴木ひでるを輩出しています。
妻・テレーゼは、物理学者・アインシュタインが来日した際、通訳をつとめました。
40歳のとき、すでに薬学者としての地位と権威を確立していた長井は、東京薬学会の例会でこのように述べています。
「昔、ギリシアの王が演劇を見に行ったところ、既に観客が一杯で、王座とすべきところがなかった。座主が恐縮していたところ、王は、『席の違いによって王であるかどうかが決まるわけではない。自分の座る席がすなわち王座なのだ』と言って、庶民の席についたという。私は諸君とともに薬学という椅子に座り、身を粉にして働き、たとえ東洋の片隅に在るとも、日本の薬学会を燦然と輝かせることを希望する」。
長井には、長崎に行っても、ベルリンで学んでも、いつも自分の座った場所を王座にする強さがありました。
自分の居る場所を愛し、自分の座る席を王座に変える。
そんな生き方があったからこそ、彼は後世に受け継がれる偉大な功績を残すことができたのではないでしょうか。
幕末から明治、大正と駆け抜けた薬学者・長井長義が、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
「日本薬学の父」長井長義は、1845年、阿波国名東郡、現在の徳島県徳島市に生まれた。
父は、阿波徳島藩の典医。
初代藩主から続く、医者の家系だった。
5歳のとき、母が亡くなる。
父は、己を責めた。
医者でありながら、妻を守り切ることができなかった。
ますます医学に没頭すると共に、息子・長義には厳しく接し、自分以上に立派な医者になるよう願う。
「いいか、精進を怠れば、たちまち ひとさまが命を落とすことになるんだ」
祖母に育てられ、ほとんど父と遊んだ記憶はない。
長義は、学業優秀。
漢学塾に通うかたわら、蘭学も学ぶ。
この頃、ペリー提督が浦賀に来航。
第12代将軍・徳川家慶が亡くなり、国内外に不穏な風が吹き荒れていた。
徳島藩城主は、早くから、長義の優秀さを耳にしていた。
城主は、長義の父に、息子をともなって城に通うよう命じた。
それまで父には怖れと反発しか感じていなかった長義だったが、城に通う道すがら、父が草木をとっては解説する時間が好きになった。
「このなんでもない葉っぱが、薬になるんだ。なあ、すごいだろう。草木を味方につければ、医学は楽しくなるぞ」
植物に触れる父は、今まで見たことがない、優しい表情をしていた。
風邪薬の有効成分、エフェドリンを発見した薬学の父、長井長義は、幼い頃から父への尊敬と反発を覚えていた。
藩主や城下町のひとに信頼されている優秀な医者としての父。
我が息子を何が何でも医者にしようと躍起になっている冷徹な父。
他の子どもと同じように剣術を習いたくて、庭で竹刀を振ろうとすると、父が飛んできてやめさせる。
「そんなことをやって、指でも痛めたらどうするつもりなんだ! 鍼治療をするとき、手が荒れていては患者さんに失礼だぞ!」
医者の子は、医者に。
長義は、自らの運命を受け入れるしかなかった。
優秀な長義に目をかけていた藩主は、21歳になった彼を、長崎の学問所に入学させる。
藩の発展には、西洋の学問を取得した人材が必要だった。
長崎で下宿したのは、後に日本で最初の戦場カメラマンになる、写真師・上野彦馬(うえの・ひこま)の家だった。
彦馬の家には、幕末の志士も集まる。
その中のひとりの熱弁に、長義は感銘を受けた。
その人物とは、坂本龍馬だった。
日本の近代薬学の道を切り開いた、長井長義にとって、上野彦馬の家に下宿したことが、大きく運命を変えた。
当時の写真技術の最先端が長崎にあった。
上野はさらに化学を学び、薬品の調合をして、硝酸銀から湿板を作ることに成功。
そんな上野の仕事や研究を見て、長井は、調合や配合でさまざまに変化する化学の不思議さを知った。
医者になることだけを目標にしてきたが、薬、医薬品にも興味が湧いて来る。
郷里を離れると、父への反発は消えていき、若くして亡くなった母への思いがあふれてきた。
医学の世界であれば、どんなジャンルでもいい。
その場所で、トップになろう。
自分なりの王座をつくろう。
そう、決めた。
明治政府による海外留学生のひとりに選ばれ、ベルリンに渡る。
ベルリン大学での二つの授業が、彼の将来を決定的なものにした。
ひとつは、ホフマン教授の化学の授業。
ホフマンは、優秀で熱心な長井を気に入り、自分の研究チームに入れた。
そしてもうひとつが、ヘルムホルツの植物学。
草木の名前が出てきたとき、胸に熱いものがあふれてきた。
幼い頃、父が教えてくれた植物たちの名前に再会できた。
母を亡くした失意の父の哀しさが、ようやく理解できた。
母を守れなかった無念さも、わかった。
植物の名を教えるときだけ、父は優しかった。
あのときの父の声を思い出し、涙がこぼれた。
「このなんでもない葉っぱが、薬になるんだ。なあ、すごいだろう。草木を味方につければ、医学は楽しくなるぞ」
化学と植物学。
長井は、薬学の世界に身を捧げることを決め、ついに王座についた。
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