第百三十七話偉くならない
何かに背中を押されるように、焦る毎日。人生は、もっと、もっとの連続です。
あなたは、そんな毎日に疑問を持ったことはありませんか?
負けたっていい、ダメでもいい、カッコ悪くても仕方ない。
そう弱音を吐きたくなったことは、ありませんか?
ここに、晩年の数十年、自宅の庭から一歩も外に出なかった画家がいます。
彼は、お金とは無縁。文化勲章も断りました。
彼の名は、熊谷守一(くまがい・もりかず)。
昨年没後40年を迎え、特別展が開催されるやいなや、再び脚光を浴びました。
山崎努主演で、彼の晩年の生活が映画になり、5月に公開されます。
東京・池袋にある「豊島区立熊谷守一美術館」。
晩年暮らした家があった場所に建てられました。
彼が住んでいた頃の池袋は、「池袋モンパルナス」と呼ばれ、若く貧しい画家たちが、アトリエ付きの安い部屋で創作に打ち込んでいました。
彼は、自分の家の庭が大好きでした。
来る日も来る日も庭だけを眺め続けたのです。
熊谷は、ある生徒に「先生、あの、どうしたらいい絵が画けますか?」と聞かれ、こう答えたといいます。
「自分を生かす、自然な絵を画けばいい。下品なひとは下品な絵を画きなさい。馬鹿なひとは馬鹿な絵を画きなさい。下手なひとは下手な絵を画きなさい。結局のところ、絵は、自分を出して自分を生かすしかないんですよ。自分にないものを、無理になんとかしようとしても、ねえ、キミ、ロクなことにはならないよ」
ひとにほめられることをいっさい願わず、貧乏なまま、有名になろうとも思わず、ただ己の庭だけを見つめ続けた画家、熊谷守一が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
仙人と呼ばれた画家、熊谷守一は、1880年岐阜県の山間の村に生まれた。
父は先祖代々で最も栄えた男だった。機械紡績の仕事で財を増やし、初代岐阜市長になり、衆議院議員にもなった。
家は裕福。屋敷は広く、使用人、女中は数十人を数えた。
守一は七人兄弟の末っ子。父はそのとき、四十八。母は四十一だった。
末っ子であるにも関わらず、守るに一と書いて守一と名付けられる。彼の一生を占う名前になった。
父は幼い頃から、利発で容姿が良く健康な守一を、自分の跡取りに決めていた。
父は勉学により良い環境をと思い、岐阜市内に構えていた別宅に守一を住まわせる。
そこには、二人の妾(めかけ)とその子どもたちがいた。
4歳にして、両親や兄弟から引き離され、いきなりの都会暮らし。
しかも、そこは愛人の家。
孤独だった。誰にも甘えられなかった。
たくさんのオモチャ、広い部屋。ちっとも嬉しくなかった。さっそく、大人への不信感が芽生えた。
家の隣には工場があり、使用人たちの喧嘩や色恋沙汰を見た。
商売のためにだまし、だまされる世界も見聞きした。
子どもだからわからない、理解できないと、大人は思うかもしれない。
でも、子どもだからこそ、わかることがある。
守一は、思った。
「大人は、汚い、バカげてる、嘘ばっかりじゃないか。もう信じない、大人なんか信じない」。
小学校に入った熊谷守一は、学校の先生にも不信感をいだいた。
先生は言う。
「いいか、おまえたちは選ばれた子どもなんだ。これからニッポンをしょって立つ、立派な大人になるんだ。偉くなれ!偉くなれ!いいか、偉くなるんだ!」
守一は、窓の外ばかり見ていた。
陽のうつろい、樹々のざわめき、虫や鳥の動きを五感で感じていた。
「おい、熊谷!なにをぼ〜としてる!廊下に立ってろ!」
怒鳴られ、叱られても、守一は、先生の言う言葉に虚しさしか感じなかった。
「偉くなった先に、いったい何があるんだろう。そのことを教えてくれるのが先生なんじゃないのか。ボクはそれよりも、こうして廊下に落ちる陽の光を見ているだけで幸せな気持ちになる。教室にやってくるハエの動きを見ているだけで、楽しくなる。風の流れがわかったとき、風と友達になれた気がする、それがどんなに素敵なことか、先生は知っているんだろうか。ボクはならない、ズルい大人には…ならない」。
家に、使用人の小僧がやってきた。彼は食べ物もお金も持たず、2日間歩いてひとりで来た。
「おまえ、腹減っただろ?」守一が聞くと、
「どうしても我慢できないときは、実りかけた稲を引き抜いて、噛んでは籾(もみ)を吐き、吐いては稲を噛んだ」と答えた。
「おまえ、すごいな。すごいよ、おまえ、オレと友達になろう」
しかし、使用人と遊べば、小僧のほうが怒られる。
守一のこの世に対する不信感は、一生ぬぐえないものになった。
画家・熊谷守一は、幼いころから絵を画いているときだけ、自分らしくいられた。父の反対を押し切り、絵描きを目指す。
せっかく入った慶応義塾も中退。東京美術学校に入学した。
闇の中に、蝋燭(ろうそく)の火だけで浮かび上がる自画像『蝋燭』で、初めて賞をもらう。
画家としての生活は、困窮を極めた。父は没落して亡くなり、むしろ借金だけが残った。
どんなに生活が苦しくても、生活のために画くということができなかった。
やがて結婚。5人の子どもに恵まれる。
守一は、子どもが大好きだった。でもその愛する子どもが病にかかり、満足に医者にも連れて行けず、食べ物も与えられず、亡くなる。
次男の陽(よう)が亡くなったとき、その死に顔を絵に画いている自分がいた。
はたと我にかえる。
「お、オレは何をやっているんだ、オレは、もう人間じゃない、鬼だ…」
このとき画いた『陽が死んだ日』という絵は、彼の最高傑作と言われている。
晩年、絵が売れても、生活を変えなかった。
質素な暮らし。家を一歩も出ない。自分の庭だけが彼の宇宙だった。
文化勲章受賞の知らせがきたときも、電話だけで断った。
「偉くなるために、絵を画いてきたんじゃない」
彼の絵のシンプルな線やハッキリした色づかいは、教えてくれる。
「人生を複雑にしているのは、あなた自身じゃないですか。いいんですよ、もっとシンプルで。人生は、勝ち負けじゃあないんです」。
【ON AIR LIST】
漂う感情 / コトリンゴ
Beetlebum / Blur
Mr Tambourine Man / BOB DYLAN
日々 / 森山直太朗
閉じる