第三百二十八話逆転を諦めない
大場政夫(おおば・まさお)。
大場は、WBA世界フライ級チャンピオンとして5度の防衛に成功したおよそ3週間後の1973年1月25日午前11時22分、首都高速でカーブを曲がり切れず、反対車線のトラックに突っ込み、この世を去りました。
享年23歳。
現役世界王者のままの死去、ということから「永遠のチャンプ」と呼ばれています。
大場のボクシングスタイルは、とにかくアグレッシブ。
先にダウンを許した試合でも、決して前に出ることを恐れず、攻めて攻めて攻め続ける。
「奇跡の逆転」は彼の代名詞になり、日本中が大場の戦う姿に勇気をもらったと言います。
その代表的な試合が、最後の防衛戦。
日本ボクシング史上の名勝負と謳われる、タイのチャチャイ・チオノイとの激闘です。
第1ラウンド、大場はいきなり右フックをまともに受け、ダウン。
その際、右足首をねんざしてしまいます。
足を引きずりながら彼は一歩も引きません。
フツウであれば、立って歩くことさえままならないほどの激痛。
でも、大場は、強気に前へ前へ進みます。
相手から目を離さず、ロープに追い詰める。
攻めの姿勢を崩さなかったことで、中盤、形勢は逆転します。
そうして迎えた第12ラウンド。
大場はチャチャイから3度、ダウンを奪い、ノックアウト勝ちをおさめるのです。
途中から、彼は足を引きずるのをやめました。
むしろ軽快なフットワークを見せるのです。
いちばん苦しいときに、後ろに引かない。
最も大変なときこそ、一歩前に出る。
彼の原点は、貧しい少年時代にありました。
スポーツライター石塚紀久雄(いしづか・きくお)著『大場政夫の生涯』には、少年時代のエピソードが鮮やかな筆致で描かれています。
なぜ、彼は、奇跡を起こすことができたのでしょうか。
短い人生を駆け抜けたファイター・大場政夫が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
伝説のボクサー・大場政夫は、1949年10月21日、東京に生まれた。
足立区本木町、荒川の近くで育つ。
父は腕のある鉄鋼職人で、自転車の車体をつくる工場に勤務していた。
贅沢はできないまでも、一家がフツウに暮らせる収入はあった。
大場の母は、父親の酒癖の悪さを見て育つ。
だから、お酒を一滴も飲めない大場の父と結婚。
しかし、彼は博打にのめり込んだ。
会社からあてがわれていた一軒家も追われてしまう。
一家は、底なし沼の貧しさに落ちていく。
食卓には、たくわんだけが並び、白い飯も満足に食べられない。
育ち盛りの子どもが5人。
大場は、いつも母のことを気づかった。
「母ちゃん、ちゃんと食べた?」
母が自分の分も子どもたちに分け与え、痩せ細っていくのを、子どもの中で唯一知っていた。
でも、母は言う。
「母ちゃんは、あとで食べるから大丈夫だよ」
冬の寒さはこたえた。
隙間風が吹き抜ける長屋。
小さな七輪をみんなでとりあい、喧嘩になる。
ぶつかった拍子に七輪が倒れ、大場は背中に大やけどを負う。
その傷は、一生治らなかった。
母と一緒に、かつて住んでいた一軒家の前を通った。
母が言う。
「昔ねえ、ここに住んでたのよ、政夫もここで生まれたのよ」
今は違うひとの表札がかかる。
小学生の大場は、言った。
「でもさ母ちゃん、昔よくてもさ、今ダメならしょうがないよ」。
そのときの母の悲しい顔を、大場は忘れなかった。
「永遠のチャンプ」、ボクサーの大場政夫は、小学生のときに思った。
「いつか、母親のために一軒家を建ててあげたい」。
ただ、そのときはまだ、いったい何で稼ぎ、母を楽にさせてあげたいか、わからなかった。
過去の話ばかりするひとが嫌いだった。
「大事なのは、今だろ? 今、幸せかどうかじゃないのか?」
父は、博打で家族を苦しめたが、子どもたちには寛容だった。
家の中で暴れまわり、襖に穴を開けようが障子を破ろうが、ニコニコ見ていた。
大場は小学生のとき、体が小さく、気も弱かった。
近所のガキ大将にいじめられる。
泣きながら家に帰ると、父に怒られた。
「泣くなら喧嘩するな!」
泣き止むまで、家に入れてもらえない。
そんな父が当時はまっていたのが、ボクシングだった。
一緒にボクシング会場に行く。
すごかった。
選手たちの鬼気迫る雰囲気に、わけもわからず興奮した。
ボクシングは、巨額の富をもたらすことも知った。
たった二つの拳だけで。
学校の休み時間、いつもボクシングごっこをやった。
運動神経のいい大場は、いつも相手を負かす。
そこにはもう、いじめられっ子の大場政夫はいなかった。
「なんだ、簡単なことだ。相手の目を見て、前に出ればいい。そうすれば、必ず勝つチャンスがめぐってくる」
幼い大場政夫のボクシング熱は、加速した。
荒川の河川敷を朝晩走る。
縄跳びも欠かさない。
バケツ二つにコンクリートを詰め、そこに棒を通し、ダンベルを作った。
持前の俊敏さ、運動神経の良さの上に、筋トレに走り込み。
どんどん強くなる。
強くなると喧嘩の回数も増えていった。
地元の悪いやつに目をつけられ、また喧嘩。
やがて、中学に入る頃には、地元で恐れられるようになっていた。
一方で、家計を助けるため、新聞配達。
貧しさから抜け出すことはできない。
父は、一度は博打をやめたが、また戻ってしまう。
同級生の家の近くに、ボクシングジムがあった。
表の階段につるされた、沁みだらけの赤黒いサンド・バッグ。
それにパンチを繰り出すボクサーを見た。
ドス、ドス、ドス!
鈍く、重苦しい音が響く。
大場の体中の血が騒いだ。
ボクサーは、ひたすら打ち続ける。
「なんだ、これは…どうして休まず打つことができるんだ?」
家に帰って、枕を打つ。
あっという間に、枕はボロボロになった。
父は、怒らない。
やがて、大場が「父ちゃん、ボクシングジムに通いたいんだ」と言ったとき、父は何も驚かず、帝拳ジムをすすめた。
まだ世界チャンピオンを出していなかったが、父には、あそこしかないという確信があった。
「ただ、やるんだったら、ぜったいやめるな。とにかく前を向け。チャンピオンになるまで、やめちゃいかん」
泣き止むまで家に入れてもらえなかった少年は、その日以来、二度と涙を流さなかった。
人生は、逆転できる。
大場政夫は、身をもって証明した。
【ON AIR LIST】
あしたのジョー / 尾藤イサオ
SPINNING WHEEL / Blood, Sweat & Tears
NEVER GIVE UP / Kool & The Gang
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