第二百七十四話古いものは全て捨て去る
乙羽信子(おとわ・のぶこ)。
テレビドラマでは『おしん』で晩年の主人公を演じ切り、映画では『愛妻物語』『裸の島』など、世界的にも評価の高い名画に主演。
映画監督、新藤兼人(しんどう・かねと)との二人三脚で、彼女は本格的な女優への道を突き進みました。
遺作となった作品は『午後の遺言状』。
乙羽は、末期の肝臓がんで、余命1年と宣告されていました。
それでも、映画に出たい。
夫でもある新藤監督は、乙羽に言いました。
「たとえ映画に出ることで寿命が1か月縮まっても、やりたいことをやったほうがいいよ。同志として、最後の作品を誠心誠意つくるから」
彼女がこの世を去ったのは、撮影を終えて3か月後のことでした。
乙羽は、この映画で、日本アカデミー賞最優秀助演女優賞を受賞します。
そんな彼女の人生は、決して平たんではありませんでした。
私生児として生まれ、養父母に育てられた幼少期。
暗い影を引きずりながら、無口でひ弱な女の子でしたが、負けん気、根性だけは人一倍だったと言います。
宝塚に入団すると、ついたあだ名が「日陰の花」。
同時期には、そこにいるだけでひとを笑顔にできる天才、越路吹雪や淡島千景がいました。
「私は、彼女たちのようにはなれない…」
容姿や才能への激しいコンプレックス。
でも、乙羽はあるとき、思うのです。
平凡な自分に残された道は、ただひとつ。
ひとの何十倍も努力すること。
いつも、闘い。
そして…自分の古いものを捨て、いかに新しいものを出すか。
彼女の出演作品は、戦の幟(のぼり)のように、血と汗で染まっています。
最期まで女優を貫いた昭和のレジェンド、乙羽信子が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
女優・乙羽信子は、1924年10月1日、鳥取県米子市に生まれた。
母は大阪・花柳界で芸者になり、魚問屋の息子との間に子どもを授かる。
添い遂げることのできない関係。
母はひとり故郷・米子に戻り、乙羽を産んだ。
やがて大阪に引き取られ、養父母に育てられる。
無口で人見知りする子どもだった。
体も弱く、外で遊ぶより、家でおてだまやおはじきをしていた。
小学1年生か、2年生の頃、学校の校門のあたりで「ノブちゃん!」と言いながら、おいでおいでをする女性がいた。
奇妙な感覚にとらわれる。
怖くなって、家まで走った。
のちにわかったことだが、それが実の母親との最初で最後の出会いだった。
自分の親がほんとうの親ではないことに、薄々、気づいていた。
あからさまに教えてくれる近所のひともいたが、どこかで冷めていて「そんなもんか」と思っていた。
養父は小さな饅頭屋さんを営んでいた。
乙羽の原風景は、暗く汚れた工場街と長屋。
行き交う工員たちが歩く路地は、いつもぬかるんでいた。
のちに映画スターになると雑誌にこう書かれた。
「乙羽信子は、大きな和菓子店に生まれ、何不自由ない少女時代をおくった」
恥ずかしかった。
彼女は歳を重ねても鮮明に思い出した。
あのくすんだ町の、湿った空気。
乙羽信子は、幼い頃から意地っ張り。
一度言い出したら手がつけられない子どもだった。
言うことをきかない乙羽を、父親が押し入れに閉じ込める。
家の押し入れは襖(ふすま)ではなくガラス戸だったが、「出して!」と叫ぶ乙羽は、そのガラス戸を叩き割った。
手から血が出て、着物は真っ赤に染まる…。
ふだんは、おとなしく引っ込み思案なのに、一度火がつくと何をするかわからない。
養父母は、手を焼いた。
叔母に連れられて初めて宝塚を見たとき、乙羽はこう思ったという。
「この世界は、自分に合うな」
舞台上でいっせいに足をあげるラインダンス。
その思い切りの良さに興味を持った。
今の自分になくて、でも今の自分にほしいもの。
それを取りにいくには、何かを捨てなくてはいけない。
天然パーマで目が大きかった乙羽は、親戚や近所のひとに「宝塚に入ればいいのに」と言われた。
体の弱さが気になったけれど、気持ちが固まる。
競争率は30倍以上。
簡単に受かるわけもない。
暗いお饅頭屋さんでお店番をする将来の自分を想像する。
なんとしても、受かりたい。
あの晴れやかな明るい方にいきたい。
手編みのセーターにジャンパースカート、運動靴をはいて試験会場に行く。
驚いた。
そんな女子は、ひとりもいない。
みんな大人びた洋装に、頬紅や口紅をつけていた。
場違い…。
隣に立つ養父もみすぼらしく見えて、全てが恥ずかしかった。
でも…乙羽は、合格した。
宝塚名物の八重桜が、満開だった。
乙羽信子は、宝塚に入って思い知る。
この世には、最初から華のある子とそうでない子、才能を生まれ持っているひとと持っていないひとがいる。
何も持っていないのであれば、努力しかない。
ひ弱な体にムチうって、ひとの何倍も練習した。
越路吹雪が楽々とできる歌やダンスを、何日もかけて練習しないとマスターできなかった。
でも、負けない。
あの暗い世界は捨てたのだから、もう戻るところはない。
「日陰の花」と言われても、かまわなかった。
日陰の花は、ひょろひょろしていても、しぶとい。
どんな雨でも日照りでも、負けない。
そうして、乙羽は、宝塚のスターになった。
娘役に限界を感じる頃、映画へのオファーがあった。
大映に入社。
「百万ドルのえくぼ」というキャッチフレーズがついた。
でも、乙羽は浮かれることはない。
常に乾いた心を持っていた。
映画女優は、乙羽の性格に合っていた。
一作ごとに、がらっと役柄を変えることができる。
宝塚トップの娘役というレッテルなど、あっさり捨て去った。
強烈で泥臭いリアリズムもいとわない。
彼女の演技は海外からも高い評価を受け、映画史にその名を刻んだ。
乙羽信子は、いつも闘っていた。
古いものに頼ろうとする自分と。
怖いのは他人ではない。
惰性で仕事をしてしまう、自分の弱さだ。
【ON AIR LIST】
TRUST YOUR VOICE / 中島美嘉
裸の島(映画『裸の島』より) / 川畠成道(ヴァイオリン)
すみれの花咲く頃 / 姿月あさと
KEEP ON WALKIN’ / Emily Maguire
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