第三百七十四話ほんとうを追い求める
宮沢賢治(みやざわ・けんじ)。
37年の短い生涯で産み出した作品は多く、詩編およそ800、童話およそ100と言われています。
さらに驚くべきは、詩作だけに時間を費やしたわけではなく、農業、学校の教師、砕石工場の技師など、さまざまな仕事に従事、その合間を縫って、エスペラント語の習得や、オルガンやチェロなどの楽器の練習を続けたのです。
その姿は、名作『セロ弾きのゴーシュ』に投影されています。
セロがうまく弾けずに、楽団長にいつも怒られているゴーシュ。
ヘトヘトで自宅に帰ると、猫や鳥、タヌキが次々やってきて、音階やリズム、音の奏で方を伝授していきます。
ゴーシュは、毎晩、満足に眠ることができません。
それでも、動物たちのおかげで、少しずつ少しずつ上達していくのです。
賢治は、全国どこに旅するときも、大きなトランクを抱えていました。
そのトランクの中には、書き溜めた、あるいは書いたばかりの原稿が、びっしり詰まっていたのです。
最初にトランクいっぱいに原稿を書いたのは、東京・本郷菊坂町でのことでした。
宮沢賢治、25歳にして初めての本格的な上京は、父と信じる宗教の違いによる、家出同然の逃避行。
父からの仕送りは送り返し、昼間は活版の印刷所で働きながら、夜は童話や詩を書き綴りました。
8か月足らずで、妹の病の報を受け、岩手に戻りますが、トランクの中は作品でいっぱいでした。
手紙に、こんなふうに書き記しています。
「私は書いたものを売ろうと折角しています。
それは不真面目だとか真面目だとか云って下さるな。
愉快な愉快な人生です」
生前、賢治が作品で原稿料をもらったものは、童話『雪渡り』ただひとつだけと言われていますが、彼はいつもトランクに詰めた「希望」を抱え、彼なりの「ほんとう」を探す旅を続けました。
生涯、「ほんとう」を追い求めた唯一無二の作家・宮沢賢治が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
宮沢賢治は、1896年、明治29年8月27日、岩手県の花巻に生まれた。
父は、質店や古着屋を営む財産家。裕福だった。
同級生には貧しい農家の子どもが多く、その農民からお金を得ている自分の家が、複雑に映る。
特に小学3年生のときには、岩手は冷害による大凶作。
農民たちは、今日食べるものを手に入れるために、質に家族の衣類を入れた。
苦しんでいる農民から、まるでお金を搾取しているような心持ちになって、賢治は落ち込み、そして、父を憎んだ。
でも同時に、そのお金で衣服を整え、食事に困らない生活をしている自分もいた。
「どっちが、ほんとうなんだろう…。
みんなが幸せに暮らす世の中というのは、ないものだろうか…」
幼くして感じた違和感は、一生、賢治の心に刻まれることになる。
人一倍、傷つきやすい心を持った賢治は、本を読み、石を集め、昆虫に話しかけることで、バランスを保つ。
担任の八木先生が語る童話に夢中になった。
物語の中では、世界は平和で、ひとはみな幸せだった。
「いつか、こんな物語を書いてみたいな…」
現実からの逃避。彼は物語に「ほんとう」を探した。
宮沢賢治は、同じく東北出身の太宰治と、どこか似ているかもしれない。
裕福な実家に対する恥ずかしさと憎しみ。
と同時に、そのおかげで生きている自分、という矛盾。
外面は、快活で陽気だが、実はひどく内向的で、ひとと心を打ち溶け合うまでに時間を要する。
さらに幼少期から体が弱く、病に苦しめられる…。
どちらも、四十を待たずして亡くなるが、多作だった。
ただ、大きく違うのは、賢治が、物語の中だけに「ほんとう」を求めなかったこと、なのかもしれない。
16歳で石川啄木を知り、短歌に傾倒する一方で、現在の岩手大学農学部、盛岡高等農林学校農学科に、首席で入学。
全国の農事試験場などに興味を持ち、地質調査に出向く。
農民が、いかにして効率的、平均的に収益をあげることができるか、そのために、土を触り、風土を調べた。
「土壌を改良すれば、肥料を変えれば、悪天候に負けない農業が実現するかもしれない」
農民たちの意識変革には、教育が大事だと悟り、教師になる。
農学校で、化学、数学、英語、土壌学を教える傍ら、童話や詩を書き続けた。
しかし、書いても書いても、童話はひとつも売れなかった。
宮沢賢治の現実との格闘は、さらに続く。
30歳の時に、農学校の教師を辞め、花巻郊外で独居自炊の生活を始める。
畑を耕し、野菜や花をつくり、近くの若者たちと共同生活をおくった。
羅須地人協会、設立。
農村に理想郷を打ち立てる。
無料で講演会や肥料の相談を請け負い、新しい農業の普及に努めた。
しかし、年配の保守的な農家の意識を変えることはできない。
追い打ちをかけるように、社会主義の一派ではないかと警察から取り調べを受ける。
やがて、活動は休止。
現実に「ほんとう」を求めた賢治は、挫折する。
「ちっぽけなボクがやれることなんて、もう何もないのかな」
病に倒れる。
だが、賢治は諦めない。
東北砕石工場の技師になって、肥料の改善、製品の営業を受け持つ。
大きなトランクを抱え、秋田、宮城に出張し、合成肥料を売り歩く。
汽車の中、あるいは宿の布団の中で、童話を書いた。
現実と物語、どちらの「ほんとう」も捨てたりはしない。
トランクの中は、宮沢賢治が心血を注いで集めた「ほんとう」でいっぱいだった。
彼は晩年、弟に語った。
「あのさ、びっくりするんだけど、夜、寝ているとね、トランクの中から言葉があふれ出てきて、宙に舞うんだ。
ひらひら、ひらひらとね」
【ON AIR LIST】
星めぐりの歌 / 宮沢賢治(作詞・作曲)、坂本美雨 with CANTUS
イーハトーボの劇列車 M-3 / 井上ひさし(作詞)、宇野誠一郎(作曲)
セロ弾きのゴーシュ / さだまさし
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