第二百三十九話幸せを与える生き方を選ぶ
「アジャパー」は、伴がたまたま発した山形弁に起因しています。
1951年、昭和26年に公開された松竹京都映画『吃七捕物帖 一番手柄』。
長い下積み生活を送っていた伴がようやくつかんだ役は、用心棒。
伴たち悪役が目明したちに取り囲まれ、一網打尽になるそのとき、彼はこんなアドリブを言ってしまいます。
「一瞬にして、パアでございます」
思わず吹き出すスタッフたち。
監督は、「もっと奇妙な感じでやってみて!」と声をかけます。
伴は、「アジャジャー」と叫びました。
これは、山形弁で老人が驚いたときに発する言葉です。
「もうひとこえ!」と監督に言われ、口をついて出たのが「アジャジャーにしてパアでございます」。
この言葉を短くした「アジャパー」は、あっという間に流行語になり、日本全国、子どもから大人まで口にするようになりました。
先生に叱られて「アジャパー」。会社でミスをして「アジャパー」。
喜劇映画で多くの観客を笑わせる一方、1964年、伴が56歳のときに出演した内田吐夢監督の『飢餓海峡』では、老刑事役をシリアスに熱演。
毎日映画コンクールで助演男優賞を受賞しました。
内田監督に徹底的にしごかれ、罵詈雑言を浴びせられ、憔悴しながらも、伴は山形警察署に足を運び、特別に刑事の取り調べを見学させてもらいました。
まさに、まもなく定年を迎える刑事が犯人に対峙しています。
伴は刑事の、犯人の人生に寄り添う姿に感動を覚え、自分の役柄の意味を知りました。
そして、母の言葉を思い出すのです。
「ひとさまに幸せを与える人間になっておくれ」。
昭和を代表する喜劇役者・伴淳三郎が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
バンジュンの愛称で親しまれた昭和の喜劇役者・伴淳三郎は、1908年1月10日、山形県米沢市で生まれた。
父は、中国の南宗画に由来する画家。
伴は後妻との間に生まれ、歳の離れた母の違う兄がいた。
筆一本では食べていけない父。貧しかった。
山形の各地や東京を放浪し、そのたびに伴たち家族もついていった。
ようやく定住したのは、山形県 小姓町。
近所からお化け屋敷と言われる古い家だった。
幼い伴は、その家が嫌いだった。
怖くて、夜、便所にいけない。
便所は家屋から離れた梅林をけずった庭にある。
すぐ隣に古い井戸。
不気味だった。
風にさやさやと揺れる笹の葉。月明かりを横切る鳥の影。
泣いて便所から帰る伴に、母はこんな話をしてくれた。
「便所が怖い男の子のために、ある日、お母さんが便所にかぼちゃと夕顔をつるしておいたんだ。怖れをなして逃げ帰る男の子に、お母さんは言ったんだよ。毎日つくってる野菜を怖がっていたら、なんにもできねえぞっ てなあ。その日以来、男の子は便所が怖くなくなったそうだよ。しょせん、かぼちゃと夕顔だぁってねえ」
伴の母は、寝る前にいつも歌を歌ってくれた。
高く、綺麗で、哀しい声だった。
伴淳三郎は幼い頃、臆病だったが、やんちゃだった。
おでん屋の屋台のつっかい棒をはずして、屋台をひっくり返したり、米屋で米と小豆をかき混ぜてしまったり、いたずらが好きだった。
極度の近眼で背は小さく、前歯は反り返っている。
家の貧しさはクラスで一番。
父はいつも家にいなかった。
いじめられてもバカにされても笑っていた。
勉強はできなかった。
メガネをすぐに壊してしまうので、黒板が見えない。
頭がずきずき痛んで、何かを覚えることができない。
先生からも呆れられた。
それでも大好きな女の子にひどい言葉を言われ、笑われたときは泣いて帰った。
母は言った。
「人間は、ひとさまに笑ってもらうくらいでちょうどいいんだよ。ひとさまに幸せを与える人間になっておくれ」
伴は、自分をいじめるやつらを、かぼちゃと夕顔だと思うようにした。
相手が野菜なら腹も立たないし、みじめな思いをすることもない。
クラスのみんなを笑わすようになった。
みんなが笑ってくれると、自分がそこにいてもいいと言われているように感じる。
伴は思った。
「そうか、笑われる前に、笑わせてしまえばいいんだ」
伴淳三郎が小学5年生のとき、写生に出かけた父からいつものように絵ハガキが届いた。
馬のしっぽが画いてある。
それを見た伴は、母に言った。
「お母さん、お父さん、長くないかもしれない。だって、落款が逆さまに押してある」
伴の言葉通り、それから数日後、父の訃報が届いた。
滞在していた旅館での急死。
葬儀の日は、雪が舞っていた。
歳の離れた兄は工業高校の教師をしていて、ひとり人力車に揺られ、母と伴は、素足にわらじを履いて、棺のあとを歩いた。
泥が背中まではねる。
寒い。
あかぎれだらけの母の手も、氷のように冷たかった。
兄を憎み、うらんだ。
貧しさが哀しかった。
みじめさが、雪と共に降り注いできた。
それでも母は、キッと前を見て歩いた。
その横顔には、苦難に立ち向かう強さがあった。
思えば母は、一度もこの世を恨む言葉を言わなかった。
伴に惜しみなく、愛を注いでくれた。
14歳のとき、東京で役者になると決めた伴を、母は駅で見送ってくれた。
「はい、これ、汽車の中で食べて」
風呂敷の中身は、大きな握り飯が二つ。
この米を買うために、母がどれほど空腹を我慢したかを想像した。
「おまえは、まだ寝小便するからねえ」
別の袋には、手縫いのパンツがいくつもあった。
涙がこぼれる。
母は、頭をなでて、言った。
「いいかい、ひとさまに幸せを与える人間になっておくれ」
アジャパーは、伴が世界に発した、幸せの言葉。
母の教えを守った、奇跡の言葉。
【ON AIR LIST】
アジャパー天国 / 泉友子、伴淳三郎
時の子守り唄 / 尾崎亜美
いつも笑顔で / YO-KING
MAKE SOMEONE HAPPY / Jimmy Durante
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