第三百四十九話人生は落丁の多い本に似ている
芥川龍之介(あくたがわ・りゅうのすけ)。
彼の実の父・新原敏三(にいはら・としぞう)は、現在の山口県岩国市美和町の出身です。
龍之介は、母の病気にともない、幼くして芥川家に養子に出されるのですが、幼名は、新原龍之介でした。
美和町の山間にある父の菩提寺には、文学碑があります。
碑文に書かれている言葉は、「本是山中人」。
山の中の人、と書いて、山中人。
龍之介が、岩国を訪れた記憶を懐かしんで、自分自身のことを称した言葉だと言われています。
隣にある副碑文には、こんな一節が刻まれています。
「人生は落丁の多い本に似てゐる。
一部を成してゐるとは称し難い。
しかし兎に角一部を成してゐる。 芥川龍之介」
この言葉には、もともと人生に失敗やトラブルはつきもので、むしろその失敗こそ、楽しみ受け入れなくては、一冊の書物にならないのだ、という芥川の思いが読み取れます。
奇しくも、岩国の文学碑にある、この二つの言葉は、芥川の一生を象徴する言葉に思えてきます。
実の父・新原敏三と、育ての父・芥川道章は、あらゆる点で正反対な人間でした。
敏三は、渋沢栄一の耕牧舎に勤めていた実業家。
粗野で癇癪持ち。
教養に欠けるが行動的で、商売の才覚に長けていました。
反対に道章は、俳句や南画をたしなむ繊細な人格者。
礼儀正しく、作法にうるさい都会人だったのです。
母が心を病むことによって、実の親から引き離され、まったく真逆の環境に放り込まれた龍之介。
彼の内なる分裂は、やがて、たぐいまれなる観察眼を育んでいったのです。
35年の生涯を文学に捧げた小説家・芥川龍之介が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
芥川龍之介は、1892年3月1日、東京市京橋区、現在の東京都中央区明石町に生まれた。
辰年、辰の月、辰の日、辰の刻に生まれたので、龍之介と名付けられる。
父・敏三は、牛乳販売会社を営む経営者。
山口県美和町から裸一貫で上京。一代で財をなした。
長男だった龍之介は、父の事業の跡継ぎとして期待されたが、生まれながらに暗い影を背負う。
彼が生まれたとき、父は42歳の厄年、母も33歳で女の大厄。
両親がともに厄年の場合、生まれた子を、一時、捨て子として扱う風習があった。
友人に一時預け、つまり、捨て、それを拾って、拾い子として育てる。
親にたたりを及ぼす子になりませんように。
そんな願いも虚しく、龍之介が生まれて数か月後、母が心を病む。
甘えたい盛りに親から引き離され、両国にある母の実家の芥川家に預けられた。
さびしさと不安。
母をあんなふうにしてしまったのは、自分が生まれたからだ。
自分を責める。
唯一の救いは、橋の上から見る隅田川だった。
ゆったりと優しく流れる大河は、彼にいっときの安らぎをもたらした。
「ボクは、どうして生まれてきたんだろう。ボクなんか、ここにいなければよかったのに」
川に語りかけても、返事は返ってこなかった。
芥川龍之介は、幼くして芥川家に預けられた。
ときどき、実家に行って母に会う。
母は、二階の窓際にもたれ、いつも煙草をスパスパ吸っていた。
「何か絵を画いてよ」とねだると、くわえ煙草でさらさらと画いた。
人物の顔は全て、キツネだった。
実家の新原家とは違い、芥川家は、芸術や文化に重きを置いていた。
2歳から歌舞伎に連れていってもらう。
家の誰もが書を読み、絵画を愛でた。
龍之介は、9歳で俳句を詠んだ。
小学校で、先生が「可愛いと思うもの」「美しいと思うもの」を書きなさいと、わら半紙を配った。
龍之介は、象は可愛い、空に浮かぶ雲は美しい、と書いた。
先生は、「象が可愛い? 冗談じゃない、ただバカでかいだけだ、雲が美しい? どこが美しいんだ!」と、龍之介の答えに、赤い筆で大きくバツを書いた。
ショックだった。
自分がダメな人間に思える。
ある日、自宅で本を読んでいたら、明らかにページが落ちているのを見つけた。
育ての父に持っていくと、父・道章は言った。
「ははは、これは落丁というんだ。明日、取り換えてもらいにいくとしよう。でもな、龍之介、落丁は、欠けている部分を探す、またとない幸運だと、思うようにしなさい」
芥川龍之介は、10歳のとき、実の母を亡くす。
12歳で、正式に芥川家の養子になった。
実の親と、育ての親。
自分の中で、理解できない理不尽さを抱えながら、文学にのめりこんでいく。
小説には、うまくいかないこと、自分の存在を肯定できないことが、赤裸々に描かれていた。
居心地がいい。
ここなら、自分も生きることができるかもしれない。
体が弱かった龍之介は、水泳教室に通うことになる。
泳ぐ場所は、隅田川だった。
物心ついてすぐに憩いの風景になった、あの大河。
まさかその流れに、おのれの身体を浸すときがくるとは思わなかった。
川に入って、思う。
心地いい。なじむ。
まるで母に抱かれているようだった。
全てを受け止め、包んでくれる存在。
生まれとは違う、真逆な環境で生きて来た自分を、初めて認めることができた。
出来損ないの落丁本でいいじゃないか。
欠けているから、面白い。
欠けているから、わくわくする。
それが人生だと思えば、いいじゃないか。
芥川龍之介は、こうして小説という大河に泳ぎ始めた。
水の音は、羊水のように、耳元で心地よく響いた。
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