第三百十四話敗北は成就なり
近松門左衛門(ちかまつ・もんざえもん)。
書いた人形浄瑠璃は100本、歌舞伎は50本。
特に50歳を過ぎてから、大阪を舞台に描いた『曾根崎心中』、『心中天網島』、そして『冥途の飛脚』は、時の流れに風化されることなく、後の世に継承され、今も上演され続けています。
浄瑠璃は、歴史を描く「時代物」と、町人の暮らしや情愛を描く「世話物」に分かれますが、近松は「世話物」を得意とし、この3つの大阪心中物は、先の見えない不安や鬱屈した生活を余儀なくされた庶民から絶大な支持を得ました。
あまりの影響力で、作品を真似て心中するひとが現れたため、上演を中止するほどの人気ぶり。
武士や貴族だけのものだった浄瑠璃を、近松は一般庶民に開放したのです。
彼のお墓は日本各地に点在していますが、大阪では中央区谷町にあります。
寺が移転し、墓だけが都会の中にぽつんと残ったさまが、どこか近松の風情と重なります。
彼は、自分の作品が後に残ることなど考えてもいませんでした。
「残れとは、思うも愚か。埋め火の消えぬ間、あだなる朽木書きして」という辞世の句があります。
「埋め火が消えるか消えないか、そのわずかな時間に、残った炭でいたずら書きをしたまでのことです。
たわいなき作品が、後世に残るのを願うのは、まことに愚かなことです」。
今、目の前のひとを楽しませ、感動してもらえるにはどうしたらいいか、それだけを真摯に考え続けた作家の矜持(きょうじ)にも思えます。
坪内逍遥が「東洋のシェイクスピア」と名付けた江戸時代の天才作家・近松門左衛門が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
井原西鶴、松尾芭蕉と並んで、元禄の三大作家として名高い近松門左衛門は、1653年、越前国、現在の福井県に生まれた。
福井藩主に仕えていた父は、突然、藩を追われ、京都に一家もろとも逃げる。
幼いながら、武士への疑念がわく。
宮仕えも安泰ではない。
いつなんどき、その場を追われてしまうかもしれない。
夜中、寝床で、父と母が愚痴をこぼすのを聞いていた。
さらに武士は気位ばかりが高い。
頭の下げ方がわからず、父は満足に商売もできない。
一家は、困窮の中にあった。
近松は10代の終わりに、とりあえず武士になるが、違和感をぬぐえなかった。
全てを捨てて、仏門に入る。
3年間修業するが、ここでも自分の一生を捧げる気持ちになれない。
京に戻り、大好きな芝居小屋に通う。
人形浄瑠璃や歌舞伎は、人生を教えてくれた。
そこには「義理」があり、「悲劇」があり、「人情」があった。
なけなしのお金を払って見に来た客が、涙を流す。明日への活力を得る。
人生で初めて、夢中になれるものを見つけた。
何度も通ううちに、歌舞伎役者の坂田藤十郎(さかた・とうじゅうろう)に目をかけられ、小屋で働くことを許される。
こうして、近松は、ますます芝居の世界にのめりこんでいった。
近松門左衛門は、宇治加賀掾(うじ・かがのじょう)のもとで浄瑠璃作家の修業を積む。
めきめきと頭角を現し、書いた台本が上演される。
30歳も半ばを過ぎた頃、あらためて、台本に自分の名前がないことに気づく。
「なぜ、作者の名前がないのですか?」
そう、師匠に尋ねると、加賀掾は言った。
「我らの仕事は、裏方なり。名はナシで結構」
しかし、近松は台本に自らの名前を入れた。
功名心からではない。自己顕示欲でもない。
それは、覚悟だった。
名を記すことで、逃げ道を断つ。
以来、歌舞伎や浄瑠璃の作家は名前を出すようになり、町人たちは演目を選ぶ基準のひとつに「誰が書いたか」を加えるようになったと言われている。
近松は、芝居小屋の座付き作家として、それなりに知られるようになった。
でも、彼自身、わかっていた。
新作も以前書いたものの焼き直し。
自分で自分をなぞっている。
まわりからいくら絶賛されても、納得がいかない。
いつの間にか、40代。
スランプは、続いた。
そんなとき、町をふらりと歩いていると、一枚の瓦版を手にした。
心中事件が報じられていた。
元禄15年、1702年に起きた、赤穂浪士の討ち入り事件。
その翌年の1703年。
大阪、曽根崎で心中事件があった。
事件からわずか1か月後、近松門左衛門は、この事件を題材に人形浄瑠璃を書いた。
『曾根崎心中』。
これが、空前の大ヒットとなる。
生々しいリアルな事件を、綿密に構成されたフィクションで追体験できる楽しみに、町人たちは連日、芝居小屋に押し掛けた。
51歳になっていた近松は、この作品でスランプを脱出。
京都から大阪に居を移した。
近松は、痛ましくも哀しい心中事件を、ただの悲劇で終わらせなかった。
心中は、そもそも世の中の義に反し、何より完全なる敗北である。
しかし、近松は、そこに愛の成就を見た。
社会の秩序への革命ととらえた。
だから庶民は、泣き、感動し、カタルシスを覚える。
近松門左衛門は、こんなドラマツルギーを書きとめている。
「あはれを、あはれなりというときは、含蓄(がんちく)の意のうして けっく その情うすし。あはれなりと言わずして、ひとり あはれなるが、肝要なり」。
近松は、憂いを大切にした。
ひとは、憂いにこそ感動し、憂いこそ、人間の感情において最も尊い。
誰かを憂うることで、ひとは優しさを知る。
心中した二人は、あはれ。
でも、お互いを憂えたからこその、あはれであった。
「あはれ」という言葉を使わずに、あはれを伝える。
これこそが、人間の人間たる証をしるす方法なのだと近松は考えた。
大ヒットの影に、近松門左衛門が過ごした少年時代が透けて見える。
「あはれ」な父を「憂うる」とき、彼の心に愛という光が宿った。
【ON AIR LIST】
YOU DON'T WANNA BE MY BABY / Aaron Frazer
TRY A LITTLE TENDERNESS / Otis Redding
逃飛行 / ゴスペラーズ
★今回の撮影は国立文楽劇場様にご協力いただきました。ありがとうございました。
資料展示室の観覧等については、開催期間など公式HPでご確認のうえ、ご来場ください。
https://www.ntj.jac.go.jp/bunraku.html
★長塚圭史さん演出、『近松心中物語』のHPはこちら!
https://www.kaat.jp/d/chikamatsu
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