第二百八十二話自分が動き、ひとを動かす
賀川豊彦(かがわ・とよひこ)。
徳島県で幼少期を過ごした彼は、ノーベル平和賞の候補者に名を連ねたこともある平和活動の旗手。
キリスト教の博愛主義を実践し、労働者の生活改善のため、労働組合や生活協同組合の設立に奔走しました。
徳島県にある鳴門市賀川豊彦記念館には、そんな彼の足跡や、ノーベル文学賞の候補にもなった著書が展示されています。
4歳で両親を亡くした賀川は、鳴門市の父の本家に引き取られ、そこで孤独な日々を過ごしました。
父の正妻の子どもではなかった彼は、ことあるごとに、忌み嫌われ、学校でも仲間外れにされたのです。
大病も患い、病の床で彼は思いました。
「自分は、何のために生まれてきたんだろう」
しかし、幼少期のこの体験こそが、のちの人生で、彼がどんな誹謗中傷にも耐え抜くことができる鋼の心を培ったのです。
あまりにも多岐にわたる活動が、彼の功績を見えづらくさせ、体制にいっさいおもねることのない態度や発言が誤解や齟齬を生み、自伝的小説『死線を越えて』という大ベストセラーまで揶揄の対象になってしまいました。
それでも、彼は己の信念を曲げず、行動し続けたのです。
関東大震災のときには、いち早く義援金を集め、救援本部を設置。
託児所や食事の配布など、庶民に寄り添った活動を実践。
これが日本におけるボランティアの始まりと言われています。
戦後は、マッカーサー元帥に直接、会見を申し入れ、日本国民への食糧支援を訴えました。
マッカーサーは彼の申し出を受け入れ、すぐに米や薬を手配することを約束。
会見後、賀川をビルの出口まで見送った、という逸話が残っています。
とにかく自分が動くことで世界を変えた、スラム街の聖者、賀川豊彦が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
ノーベル平和賞に3度ノミネートされた社会活動家・賀川豊彦は、1888年7月10日、神戸市に生まれた。
父は、もともと阿波藩の数々の村を治める大庄屋の出身。
江戸時代、吉野川流域は、藍染めの藍の生産で潤っていた。
豊かな財源を背景に、商売の才覚や政治の手腕に長け、自由民権運動の板垣退助にまで認められた父だったが、放蕩を繰り返し、芸者との間に子供ができた。
それが、豊彦だった。
あえなく父と母が他界。
跡取りのいない徳島の賀川家に引き取られることになる。
待っていたのは、父の正妻。
ひとことも口をきいてくれない。
豊彦の母の悪口ばかりを言い放つ。
祖母の厳しい躾が追い打ちをかけ、豊彦の孤独は深まっていった。
吉野川の川べりだけが憩いの場所。
野に咲くたんぽぽに話しかける。
川で魚や蟹をつかまえることで、独りの時間をやりすごした。
小学校に入ると、猛烈ないじめが待っていた。
自らの出生についての陰口や罵詈雑言。
どんなに勉強しても、どんなに自分を高めようと努力しても、消えることはなかった。
家に帰れば、継母の父や母への恨みつらみの言葉。
逃れようがない。
豊彦が11歳の時、ある事件が起きて、彼の中で何かがはじける。
貧しいひとたちのために闘い続けた偉人・賀川豊彦は、11歳のとき、逃げることにした。
もうこの場所には、いられない。
人生で初めて、自分を生かすために行動した。
そのきっかけになった事件。
ある日、村の世話役の男性がやってきて、こう言った。
「隣村の小学生がねえ、肋膜炎で死にかかっているんだが、その原因がねえ、どうやら、豊彦くんがこうもり傘で突き刺したことらしくてねえ」
全く身に覚えがないことだった。
まるっきりの冤罪。
ここにいては、自分はダメになる。つぶされる。
心からそう思った。
村を出て、15歳年上の兄が住む神戸に移った。
そこから寄宿舎のある旧制中学、徳島中学校を受験。
難関を突破し、新しい世界が開けた。
もう誰も彼を悪くいうひとはいない。
同じ村出身の同級生でさえ、態度が変わった。
ひとを変えようと思っても、なかなか変えられるものではない。
まずは自分が変わること。
そうすれば周りも変わっていく。
そんな人生哲学を得た。
兄は、父のように放蕩三昧。
家業をつぶしてしまい、賀川家は一気に没落の一途をたどる。
豊彦は、体の線が細く、病弱で背も低い。
父や兄が反面教師になり、純潔や誠実が第一義になった。
そんな豊彦に、人生を変える出会いが用意されていた。
賀川豊彦が、入った徳島中学校。
寄宿舎のバンカラな雰囲気が苦手だった。
2年目に、英語教師の片山が主宰する「片山塾」に入る。
徳島の教会に通うクリスチャンの片山の家に下宿。
豊彦はそこで、生まれて初めて家庭のあたたかみを知る。
家族はお互いを慈しみ、いたわり合い、支え合うもの。
そんな認識が全くなかった彼は、片山に優しく接してもらい、涙した。
やがて、キリスト教にも興味が湧いてくる。
洗礼までは躊躇があったが、博愛精神は心に沁みた。
自分が辛かったとき、哀しかったとき、誰も手を差し伸べてくれなかった体験が根底にある。
「もし、誰か困ったひとがいたら、そのとき自分にできることを何でもやろう」
そう、決めた。
やがてローガン先生、マヤス先生という、二人の宣教師に出会い、運命が変わる。
今まで自分が過ごしてきた時間の意味や、これからなすべきことが明確に見えた。
16歳で洗礼を受ける。
聖書だけでなく、外国文学にも傾倒。
特にトルストイの『戦争と平和』には感銘を受け、繰り返し読んだ。
賀川家の破産により、学費が払えない状況に追い込まれたが、叔父に助けられ、なんとか進学を許される。
世の中が戦争一色に染まりつつあり、中学5年生になった豊彦は、軍事教練への参加を求められたが、これを拒否。
絶対平和主義を貫いた。
当時、そんな行動に出る中学生などひとりもいない。
世間を敵に回す生き方でも、マヤス先生は擁護してくれた。
もともと、世間を信じていない。
最初から、世間は冷たかった。
だからこそ、自分の思うままに行動し、闘う。
闘うのは、自分のためではない。
誰か、困っているひとのためだった。
この世に必要ではない人間だ、と思っていた幼少期を思えば、どんなに叩かれ、罵倒されても、平気だった。
今は、信念がある。
貧しいひと、困っているひとのために生きる、という思いがある。
自分という種がやがて地面に落ちて、芽を出し、花を咲かせることを思いながら、彼は71年の生涯を、前へ前へと進み続けた。
【ON AIR LIST】
HELPING HANDS / Amy Grant
PEOPLE GET READY / The Impressions
I'LL BE THERE / Jackson5
LEAN ON ME / Club Nouveau
【撮影協力】
鳴門市賀川豊彦記念館
https://www.kagawakan.com/
閉じる