第五十話ポジティブであること
その街中にある周南市美術博物館には、ある写真家の記念室が設けられています。
林忠彦。
戦後の焼け跡にたくましく生きる子供たちをとらえた写真や、太宰治や坂口安吾など文豪の写真でもその名をとどろかせた、名写真家です。
彼は我が国の写真文化発展のためにも、尽くしました。
日本写真家協会設立に加わり、昭和28年には二科会に写真部を創設。
全国のアマチュア写真家の資質向上に、尽力しました。
その功績をたたえ、遺志を継ぎ、周南市は未来を切り開く写真家の発掘のために、林忠彦賞をつくりました。
この賞により、数多くの新人写真家が見出されています。
ここに一枚のモノクロ写真があります。
タイトル『犬を背負う子供たち』。
1946年、戦後の焼け跡がまだ生々しく残る町。
三宅坂の参謀本部跡。坊主頭の子供が二人写っています。
一人は座ってこちらを見ていて、もう一人は、立ってどこかに歩き出そうとしています。
立っている少年の背中には、野良犬がいます。
子供をすっかり信用している様子。
手をちゃんと肩にかけています。
子供たちの表情は、決して暗くない。
それどころか、瞳の輝きがわかる。
自分たちの食べるものもままならない時に、犬に餌をあげ、共に生きる子供たち。
写真家、林忠彦は、この写真にこんなコメントを寄せました。
「こんなに優しい少年たちがいるのであれば、戦後の日本の将来は、明るいに違いない」
どんな状況でも生きようとする心、前に進もうとする意志、ポジティブな思いを写真におさめた、林忠彦にとっての明日へのyesとは?
写真家・林忠彦は、1918年、大正7年に、山口県の徳山、今の周南市に生まれた。
実家は、写真館。幼い頃から、カメラに囲まれた。
徳山は、瀬戸内海に面した港町。早くから工業の起点として栄えた。
風光明媚な自然と、工場群。その一見相反するような風景が、幼い林の眼に刻まれた。
人間の暮らしを支える二つのもの。現実と夢。挫折と希望。
風土が培った種は、やがて彼を大海原へと追い立てる。
高校を出ると、大阪の写真館に修行に出される。
肺結核を病み、すぐに地元に戻る。
写真学校に入り、いつもカメラを携えていた。
彼は被写体を探していた。ここではないどこかを、求めていた。
東京に出て東京光芸社に就職。1942年には中国に渡った。
「華北弘報写真協会」をつくり、日本の宣伝写真を撮影した。
北京で敗戦を迎え、引揚者となる。
なんとか帰国して故郷に帰っても、落ち着かない。
心の飢えをどうすることもできない。彼は再び、上京。
焼け跡をさまよい、帰還兵、孤児、食べ物や仕事を求める人たちにカメラを向けた。
レンズを通して、彼はある熱量に気づく。
「このエネルギーは、いったいなんだ?どんなに空腹でも、ボロボロでも、生きようとするひとの力は凄い」
彼は思った。
「ポジティブであること、それが生きる基本ではないか」
写真家・林忠彦が、戦後の焼け跡を撮り続けた、その写真集の名前は、「カストリ時代」。
カストリとは、メチルアルコールを加えたような密造の焼酎。
もともとは酒粕をしぼりとってつくるので、カス、トリと名付けられた。
質が悪く、飲み過ぎると、失明したり、命を失うひともいた。
それでも新宿や新橋のガード下では、カストリを飲ませる店が軒を連ねていた。
この横丁で、林は作家たちと飲み仲間になった。
文士たちの眼の奥の光が彼を魅了した。
貪欲で、何かに媚びない目。
銀座のルパンというBARにもよく顔を出した。
1946年。そのBARに三人の作家がいた。
坂口安吾、織田作之助、そして太宰治。
酔った太宰が、大きな声で林に言った。
「おい、そこの写真家、織田作ばっかり撮ってんじゃないよ。オレを撮れよ、オレを!」
背の高い椅子に足を持ち上げる太宰を撮った。
全身を収めたかったので、BARのトイレの便器をまたいでシャッターを切った。
太宰はいい顔をしていた。綺麗な瞳をしていた。
林は、気持ちよさそうな太宰を撮った。
この撮影からおよそ一年半後、太宰はこの世を去る。
のちに、この写真が林忠彦の代表作になった。
それは、もうすぐ亡くなる太宰を撮ったからではない。
生きることを楽しんでいる太宰を撮ったからだ。
写真家・林忠彦の飲み友達に、作家、坂口安吾がいた。
安吾の自宅の床の間には、カストリが入った大きなドラム缶が置いてあったという。
友人たちは、それを薄めて飲んだ。
安吾は、友人たちと酒を酌み交わすことを何より好んだ。
ただ、自分の執筆部屋には、誰も入れなかった。
妻さえも、見たことがない。
ある日、林は、安吾に言った。
「なあ、見せてくれないか、どんな部屋であなたが書いているか、見たいんだ」
あまりに何度も頼まれて、仕方なく、安吾は同意した。
「こりゃまたひどい部屋だ。はははは」
掃き溜めだった。
ゴミくず、丸められた原稿、壮絶な戦いの場所だった。
テーブルに広げられた原稿用紙、丸メガネに白いシャツ姿の安吾。
こちらをキッと睨むように見る。いい顔だった。
サンクチュアリ。誰にも侵すことのできない聖域だった。
林は思った。
これが生きるってことだ。これが戦うっていうことだ。
安吾の眼は、ポジティブに、貪欲に生きようとする、エネルギーにあふれていた。
生きることは、汚い。
生きることは、格好悪い。
でも、どんなに泥に足を突っ込んでも前に進む心、生きようとする姿は、清らかで美しい。
写真家・林忠彦は、ただそれを、フィルムに焼き付けた。
ひとは、どんなときにも、前に進む心を持っている。
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