第百四話自分にできることを追い求めて
その向こうにそびえる岩手山の美しい稜線は、観るひとの心にやすらぎを与えます。
北上川に架かる旭橋を渡ると、「いーはとーぶアベニュー」があります。
イーハトーブ。岩手に存在すると考えられた理想郷。
それを考えたのが、明日8月27日が誕生日の、宮沢賢治です。
この通りは、詩人、童話作家、教師、農業指導者、地質学者、音楽家、さまざまな肩書を持つ、岩手が生んだ唯一無二の存在、宮沢賢治へのオマージュからできました。
宮沢賢治は岩手県花巻市に生まれ、岩手県立盛岡中学校、現在の岩手県立盛岡第一高等学校に通い、全国初の高等農林学校、現在の岩手大学農学部に学びました。
13歳から24歳までの最も多感な時期を、盛岡で過ごしたのです。
「いーはとーぶアベニュー」には、花崗岩に座る賢治の彫像があります。
何かを思うような、うつむき加減の賢治の姿。
彼は、わずか37年という短い生涯で、およそ800もの詩や、100篇もの童話など、厖大な作品を残しました。
児童文学という枠をも超える彼の作品世界は、今も変わらず、多くのひとの心の中に生き続けています。
彼の作品は、決してわかりやすいものばかりではありません。
むしろ、どのように解釈していいのか、戸惑うものも多いのです。
それでも、その創造物はひとびとの想像力をかきたて、忘れ得ない読書体験を残します。
童話集『注文の多い料理店』の冒頭の言葉。
「これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。ほんとうに、かしわばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立ったりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです。」
生涯を自然とともに生きた宮沢賢治が、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
宮沢賢治は、1896年、明治29年8月27日に、現在の岩手県花巻市に生まれた。
賢治が生まれた年は、自然災害が多かった。
6月の三陸沖、大地震。
津波を引き起こし、およそ2万2千人もの命が奪われた。
7月には盛岡も大雨や洪水に見舞われ、北上川も増水。
稲も実らず、腸チフスや赤痢が蔓延して、多くの人が亡くなった。
さらに8月の花巻での地震でも、甚大な被害があった。
賢治の実家は、花巻でも有名な財産家。質や古着商を営んでいた。
父は実業家として敏腕で、一代で財を築いた。
自分にも厳しいが、ひとにも厳しい父。
性格は偏屈で悲観的。しつけにも、うるさかった。
実業こそ、男が生きる道、そう信じて疑わない父に、賢治はいつも違和感を覚えていた。
反対に母、イチは、当時にしては珍しく英語や洋裁を習う、進歩的な女性で、明るい性格で楽天的、ユーモアのセンスがあり、芸術や自然の美しさを解する心を持つ、ロマンティストだった。
父のペシミズムと、母のオプティミズム。
相反する性質が、賢治の中で、どちらも育っていった。
どんな道も足を踏み入れたら、とことん究めようとする神経質な性癖と、大らかに万物を愛する人間愛。
そのある意味矛盾する性格こそが、賢治を苦しめた。
経済的に恵まれたことでさえ、彼にとっては苦痛だった。
「どうして僕は、他のひとと違うんだろう…」
宮沢賢治は、小学3年生のときには、画用紙に仏像を画き、粘土で仏像をつくる子どもになっていた。
「ひとは、なんのために生まれ、死んでいくんだろう。僕はそれが知りたい」
宮沢賢治は、成長するにつれ、父への反抗心が芽生えていった。
「お父さんは、弱い立場のひとを相手に商売をしている。飢饉で困った農民を助けるどころか、お金を巻き上げている。そんな父を許せない」。
そこには、青年期特有の理想主義もあっただろう。
フツウはその後、大人になる。
「まあ、そうは言っても、世の中そんなもんだろう」。
しかし、賢治は違った。
農家が苦しいとき、儲けているウチは、おかしい。何かが間違っている。
小学3年生のとき、運命的な出会いがあった。
担任の八木先生。
当時19歳だった八木先生は、熱意にあふれ、子どもたちと真正面から向き合った。
雨で体育ができないとき、教室で童話を読んだ。
賢治は思い出した。幼い頃、養母の背中で聞かせてもらった民話や昔話。
八木先生が聞かせてくれた外国の童話、エクトール・アンリ・マロの『家なき子』は、鮮烈だった。
「世の中に、こんなに面白い話があるんだ!」感動した。
先生はときどき、生徒を川べりに連れて行き、石について話した。
「どれか好きな石を探してごらん。その石を主人公に物語をつくってみよう。石にも、心があるんだぞ。その声に耳を傾けてみるんだ」。
体が弱く、内向的だった賢治は、たちまち物語づくりに没頭した。
「おう、宮沢、おまえ、面白い話を思いついたなあ」
先生に初めてほめられた。うれしかった。自分の居場所を感じた。
宮沢賢治は、父の仕事のやり方を嫌いながら、将来の夢という作文で、
「ボクは、大きくなったら、質屋の主人になります!」
と書いた。
先生への、父への、世辞だった。
農民が、いちばん偉い。
自分は、父のようにはならない。
賢治は、心根の優しい子どもだった。
クラスの友達が、ある日、荷馬車に指をひかれてしまった。
泣きじゃくるクラスメート。
賢治はとっさに、その男の子の指を口にあて、血を吸った。
「いたかべ、いたかべ」
必死に励ます賢治。
また、ある生徒が悪ふざけをして、廊下に立たされ、水を並々入れたヤカンを両手に持たされたときは、そのヤカンの水を飲んで楽にしてあげた。
他人の痛みを、自分の痛みに感じること。
それこそ、宮沢賢治が生涯、心に決めたことだった。
それは、自然界を見ればわかる。
たったひとつだけで生きている植物も動物もいない。
みんなが共存、共生し合い、生きている。
彼は自然に触れれば触れるほど、自分の居場所に近づいていった。
賢治の童話や詩が、ときにわかりづらくても、ひとがその作品で癒されるのは、彼の根底に万物への愛があるからだ。
石に物語を托した少年は、時代を越えるお話をつくった。
その話は、相反する自分を全て包み込む、優しいストーリーだった。
自分にできることを追い求めて、彼は短い生涯を生き抜いた。
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