第百八話未知の領域を目指す
真偽のほどは藪の中ですが、自身のインタビューで、出生届が出されたのは小倉だが、生まれたのは広島だと答えたと言われています。
松本清張の父は、鳥取県生まれ。
郷里を出て広島県の警察部長の家で書生になったり、広島の病院で看護助手をするなど、職を転々としていました。
母は広島生まれで、紡績工場の女工をしていました。
どういう経緯で二人が知り合ったのかわかりませんが、広島で暮らし、そこで清張が生まれたのではないかと推測されています。
晩年、清張は母の生まれた広島の町を訪ねました。
すでに墓も家もありません。一面田んぼが拡がるあぜ道をゆっくり歩き、彼は路傍の石に腰をおろしました。
遥か遠くの山々を見て、しばらく物思いにふけっていたそうです。
ひとりっ子だった彼は、両親、特に母に溺愛されました。
清張は自叙伝『半生の記』に、こんなふうに書いています。
「もし、私に兄弟があったら私はもっと自由にできたであろう。家が貧乏でなかったら、自分の好きな道を歩けたろう。そうするとこの『自叙伝』めいたものはもっと面白くなったに違いない。しかし、少年時代には親の溺愛から、十六歳頃からは家計の補助に、三十歳近くからは家庭と両親の世話で身動きできなかった。私に、面白い青春があるわけはなかった。濁った暗い半生であった」。
そんな彼の言葉とは裏腹に、作家・松本清張の作風は、自由でした。
純文学、推理小説、歴史・時代小説…。
芥川賞をとった『或る「小倉日記」伝』は、もともと直木賞候補でもありました。
未知の領域に踏み込んだ彼の作品は、誰にも真似できない、ジャンルを超えたオリジナリティに裏打ちされていたのです。
いかにして彼はその自由を手に入れたのでしょうか?
松本清張が、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
小説家・松本清張は、1909年に生まれた。
父の仕事は安定しなかった。家計は火の車。貧しかった。
家も転々とした。
清張の最初の記憶は、下関の壇ノ浦。
家は崖に立ち、海は荒れ狂い、渦を巻いていた。
父はここで餅を売る商売を始めたがなかなかうまくいかない。
家は海にせり出すように立っていて、怖かった。
その風景は、幼い清張の心に強烈に刻まれた。
「この壇ノ浦の時代は、私にとって幼い頃の『詩』であった。もし少年に『未知への憧れ』があるとしたら、私はその思慕は三つぐらいのときに見た門司の夜景からはじまったのかもしれない」。
松本清張の原風景は、海の向こうに拡がるまだ見ぬ世界だった。
貧しかったが、生きていけないほどではない。
代わりに、ありあまるほどの愛を受けた。
両親からだけでなく、祖母も大切にしてくれた。
祖母が言う言葉が、耳に残る。
「まぶってやるけんのう」。
守ってあげるから、大丈夫、という意味だ。
松本清張は、のちに語った。
自分の性格は「父からは、向学心とロマンチスト、母からは勤勉努力とリアリスト」をもらってできた、と。
さらに祖母の愛で包み込んでもらった。
父はよく、枕もとで本を読んでくれた。
作家の芽は、こうして育っていった。
松本清張には、大きなコンプレックスがあった。
それは、学歴。
憧れの名門小倉中学に入ることもできず、家計を助けるため、高等小学校を出るとすぐに働きに出た。
父の勧めで、電気会社の給仕になったが、昭和初期の不況のあおりを受け、職を失う。
今度は母の勧めで、手に職をつけるため、印刷工になる。
職場はきつかった。それでも歯を食いしばる。
幼い頃から、彼には決めていることがあった。
「どんなときも、負けないという強い心を持つこと」。
この思いは、松本清張の生涯を貫いた。
学歴がなくても、負けない。
どんな仕打ちにも、負けない。
眠くても、つらくても、負けない。
そうして頑張っているうちに、ついに版下づくりの職人として一人前になった。
朝日新聞社の支社が、小倉に移ってきたとき、会ったこともない支社長に手紙を書いた。
「私を使ってください」
見事、合格。清張は晴れて朝日新聞の社員になった。
本当は、新聞記者として入りたかったが、学歴のない自分には仕方がない。
でも一流新聞社のバッジを胸につけられた自分が誇らしかった。
彼は言う。
「上級学校を出た途端に勉強をストップする者と、小中学校を出てから一生勉強して通す者と、どちらに最終の勝敗があるだろう」。
さらに松本清張は、こう続けた。
「人生には、卒業学校名の記入欄は、ない」
小説家・松本清張は、小学生のときから、本を読むのが好きだった。
買うお金などないので、古本屋で立ち読み。図書館に通った。
古今東西の小説を片っ端から読んでいく。
楽しかった。本を読んでいるときだけ、現実を忘れることができた。
面白い本に出合うと、その時代の背景や歴史的事件に興味がわく。
それを知るためにさらなる読書が待っている。
原書で読みたいがあまり、英語も必死に勉強した。
そんなふうに、自分の枠を拡げていく作業は、亡くなる年まで続いた。
努力、努力、努力。枠を飛び越え、枠を捨て去る。
自分には、それしかない。そんなふうにしか、生きていけない。
ひとは誰に強制されたわけでもないのに、自分が決めた枠にとらわれ、枠にしばられるものだ。
清張は、とにかく、ジャンルを超えることを第一義とした。
面白い小説は、面白い。そこには垣根もジャンルもない。
自分もいつか、誰もが現実を忘れられるような作品を書いてみたい、そう、思うようになった。
幼い頃見た、対岸の夜景。
あそこに何が待っているんだろう。あのワクワク感、ここではない場所への憧憬が、彼に小説を書かせた。
1953年、44歳のときに、芥川賞をもらった。
そもそもは、直木賞の候補作。驚いた。
読みやすい文体で誰もが楽しめる小説を書くことを念頭においた。
わかるひとにしかわからない純文学を書くつもりはなかった。
それでも、評価はうれしかった。
ある選考委員は言った。
「君は、芥川賞にしばられるな、殺されるな、思うとおりに書け!」
松本清張は、あらゆるジャンルを超え、今もたくさんのひとに読み継がれている。
彼の向学心、探求心は、時間の渦に負けなかった。
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