第十五話 幸せの谷
軽井沢万平ホテルの裏に伸びる、石畳の小道。
苔むした石垣や何処までも続く木々たちは、時代を越え、ここを歩くひとを見てきました。
外国からやってきた宣教師は、ここを、こんなふうに呼びました。
『ハッピー・バレー』。幸福の谷。
1977年から79年の夏、この幸せの谷を何度も往復した、ある家族がいます。
ジョン・レノン、オノ・ヨーコ、そして息子、ショーン。
三人は、あるときは万平ホテルを、あるときは、離山房というカフェを訪れるために、この道を歩きました。
彼らは、緑の香りを胸いっぱいに吸い込んで、鳥の声に、耳を傾けました。
オノ・ヨーコの別荘があった、幸せの谷は、彼らを優しく包み込み、まるで世界はひとつだと言わんばかりに、キラキラと輝いていました。
オノ・ヨーコは、隣を歩くジョンに、どんな言葉をなげかけたのでしょうか?
そう、オノ・ヨーコが初めてジョン・レノンに会ったとき、彼女は一枚の名刺を差し出したそうです。
その名刺には、たったひとこと、こう書かれていました。
「呼吸、しなさい」。
オノ・ヨーコは、1933年2月18日、銀行家の小野英輔の家に生まれた。
父英輔は、銀行家になる前はピアニストだった。
ヨーコもピアノを習う。父に気に入られたかった。
ベートーヴェンやバッハを練習した。
一時、サンフランシスコに移り住むが、戦争の足音がひたひたと聴こえてきた。
日米間の緊張を感じ、ヨーコだけ鎌倉にある母方の実家にあずけられた。
両親はいないが、おつきのものはたくさんいた。
でも、さみしかった。暗闇が怖い。
古い屋敷のそこかしこに恐怖を覚えた。
12歳のとき、東京大空襲を経験。空腹をまぎらわすために、弟と架空のメニューを言いあった。
地方での疎開暮らしはなじめなかった。いつもひとりで空を眺めた。古い家屋の天井に開いた穴から、空を見ていた。
終戦後しばらく経ってから、父の仕事でニューヨークに住む。
サラ・ローレンス大学で文学や音楽に触れる。
前衛芸術を始めた。
人種差別、女性蔑視、さまざまな苦難の中、彼女はひたすら前だけを見つめた。
1966年11月9日。運命の出会いが彼女を待っていた。
ロンドンでのオノ・ヨーコの個展。タイトルは『未完成の絵画とオブジェ』。
ジョン・レノンが、やってきた。
天井に書かれた『YES』の文字を見た彼は、オノ・ヨーコに言った。
「もし、『NO』とか『インチキ』みたいな言葉が書かれていたら、すぐにギャラリーを出ていったと思う」
二人は握手をして、やがて恋に落ちた。
YESを言ってもらったのは、ジョン・レノンだけではなかった。
オノ・ヨーコもまた、ジョンにYESを言ってもらえた。
自分がやるパフォーマンスを支えてくれる。
自分がこれまで感じた恐怖や辛い体験も、優しく包み込んでくれた。
ショーンが生まれ、夫婦の在り方に悩んだ。
二人とも、アーティスト。どう日常と向き合えばいいのか。
ヨーコの頭には、これまでの身をすり減らした経験がよみがえる。
ジョンは、言った。
「僕が、ハウスハズバンドになるよ」。
夏の軽井沢が、彼らの背中を押した。
高原を吹き抜ける風が、彼らの歩く道を幸せへといざなった。
オノ・ヨーコは、どんなに苦境に立たされても、こう思っていた。
「ひとのことを批判するエネルギーがあるなら、それを自分の生活をよくするために使いたい」。
そしてショーンを自転車に乗せて、離山房に向かうジョン・レノンの背中を見て、気づいた。
「相手の価値観を認めて、許すことができれば、それこそが人を理解し、愛することにつながる。自分の健康にとって、いちばん大事なことは、許すこと。そして、愛すること」
たくさん傷ついた彼女だからこそ、そこに辿り着いた。
離山房には、ジョンとショーンが一緒に写る
セピア色の写真が飾られている。
ショーンの身長を測る、ジョン・レノン。
その姿を見つめるオノ・ヨーコは、どんな表情だったのか。
おそらく、笑顔だったに違いない。
オノ・ヨーコは、あるインタビューにこんな言葉を残した。
「私たちはみんな、それぞれの川から流れてきた水、だから簡単に会うことができる、私たちはみんな、この広い広い海の水、いつか、一緒に蒸発する」
オノ・ヨーコは、ジョンを失っても、許すことをやめなかった。
許すこと、愛すること、彼女の想いは、今も、空に昇華し、地球をかけめぐる。
そして彼女は、明日を生きる全てのひとに、こんなメッセージを届ける。
「空の雲を眺めるような気持ちで、夢を胸に秘めてください。
自分を大事にして、美しい夢を持って、ください」
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