第九十九話ジョンとヨーコ、それぞれのyes!前編
二人のインタビューや数多くの著作物をもとにフィクションでお送りするドラマ『ジョンとヨーコ、それぞれのyes!』。
オノ・ヨーコ役は女優の西田尚美さん、朗読は、私、長塚圭史です。
ジョン・レノンが亡くなってから9年後の、1989年の夏。
軽井沢の緑の小道を、ひとりの女性が歩いていた。
ヨーコ:
はるばるニューヨークから日本にやってきたのだから、やっぱり軽井沢に寄りたくなった。
あれ以来、一度も足を踏み入れていない別荘を訪ねてみようと思った。
彼女の名前は、ジョン・レノンの妻、オノ・ヨーコ。
ヨーコ:
懐かしい小道には、草が生えていた。ジョンと息子ショーンと三人で歩いた道。
ジョンがいつもジョークを言って、私たちを笑わせた。三人の笑い声が、濃い緑に吸い込まれていった。
ジョン:
ほら、早くおいでよ、ヨーコ。さあ、早く!
ヨーコ:
ジョンが振り返り、私を誘う。
ジョン:
別荘まで競争だ、行くぞ、ショーン!それ!
ヨーコ:
この道を、外国からやってきた宣教師は、こう名付けた。
「ハッピーバレー」、幸福の谷。
私たちは、幸福だった。
ヨーコ:
別荘のドアを開けると、カビ臭い匂いがした。
床にショーンのおもちゃが転がっている。ジョンが読んでいた本が、そのままテーブルに置いてある。
電話の脇には、吸いかけのジタンの箱。寝室には、ギターが埃をかぶっていた。
ジョン:
毎年、ここに来るんだからさ、これはここに置いておくよ。
ヨーコ:
ジョンはこのギターで、ディナーのあと、ショーンに歌を聴かせていた。
ジョン:
さあ、今夜は何の歌にしようかな…。
ヨーコ:
軽井沢でのジョンは、いい表情をしていた。
優しく、慈愛にあふれ、何かにおびえることもなく、ふわっと包み込むような笑顔で私とショーンを見た。
あるとき、心無い批判を受けて落ち込んでいる私に、彼は言った。
ジョン:
ひとの言うことなんて、気にしちゃダメだよ。
「こうすれば、ああ言われるだろう…」
そんなくだらない感情のせいで、どれだけ多くのひとが、やりたいこともできずに死んでいくんだろう。
ねえ、ヨーコ、いいかい、幸せになることに躊躇してはいけない。
好きに生きたらいいんだよ、だって君の人生なんだから。
僕らは、幸せになるために生まれてきたんだ。
ヨーコ:
万平ホテルに泊まった。アルプス館128号室。
和ダンスに猫足のバスタブ、桜模様がほどこされた丸い灯り、大きなガラス窓。
和洋折衷の空間が、心地よくそこにあった。
窓の下は、ホテルのエントランス。
ジョンはここから、行きかうひとを見るのが好きだった。
ジョン:
軽井沢は、いいね。この吹き抜ける風はね、どこか似ているんだ、故郷のリバプールにね。
オノ・ヨーコは、朝早く自転車に乗った。
かつてジョンと一緒に遠出をした。
緑の中を走る。鳥が飛び立ち、木々の葉が揺れた。
旧軽井沢から中軽井沢に行く少し手前の道を奥に入ったところに、その喫茶店はあった。
『離山房(りざんぼう)』。
ヨーコ:
ジョンはショーンを前に乗せた。
いつもこの喫茶店のあたりまで来ると、必ず彼はこう言った。
ジョン:
なあ、ヨーコ、のどが渇いたから珈琲を飲もうよ。
ヨーコ:
9年ぶりの軽井沢。心配したが、まだ喫茶店は健在だった。
ふと、声が聴こえた。
ジョン:ねえ、ヨーコ。
ヨーコ:なに?
ジョン:いいから、ドアを開けて中に入ってごらん。
ヨーコ:え?なに?何があるの?
中に入ると、店の主人が懐かしそうな顔で近づいてきた。
そして、おもむろにあるものを差し出した。
「これはこの前いらしたときに、御主人が忘れていかれたものです。奥様にお返しいたします」。
ヨーコ:
渡されたのは、ライターだった。ジョンが愛用した、ライター。
私は、火をつけてみた。
まるで、9年間ずっと待っていてくれたかのように、勢いよく火がついた。
ジョンは好きだった、私を驚かせること。
ジョンは優しかった、私がさみしそうにしていると、必ずジョークを言ってくれた。
ジョン:
ヨーコ、受け取ってくれたかい?
ヨーコ:
ジョン、ありがとう…。
涙がこぼれそうになるのを、必死でこらえた。
ジョンは、私に人生を肯定することを教えてもらったと言っていたけれど、私もまた、彼に教わった。
ジョン:
心を開いて「yes」って言ってごらん、全てを肯定してみると案外答えがみつかるもんだよ。
ヨーコ:
私はもう一度、ライターに火をともした。
ジョン・レノンにとっては、世界中がガラスの家みたいで、隠れるところがなかった。
でも、軽井沢だけは違った。
ここでは、ただのハウスハズバンド。
まわりのひとは、絶妙の距離感でそっとしておいてくれた。
万平ホテルのテラスで、ひとりロイヤルミルクティーを飲みながらアップルパイを食べていても、自転車でフランスベーカリーにバゲットを買いに行っても、他のひととなんら変わることのない応対だった。
軽井沢という土地が持つ、全てを受け入れる懐の深さが、彼に幸せな時間を授けた。
オノ・ヨーコは軽井沢を去るとき、もう一度、幸せの谷を歩いた。
ヨーコ:
大きく息を吸って、体中で緑の香りを感じてみた。
夏の避暑地をあとにする私に、ジョンの声が聴こえた。
ジョン:
君が独りのとき、本当に独りのときこそ、誰もができなかったことをなしとげるんだ。
だから、しっかりしろ。
【ON AIR LIST】
Beautiful Boy / John Lennon
Julia / The Beatles
(Just Like) Starting Over / John Lennon
Woman / John Lennon
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