第五十八話夢を持つ資格
美しい庭園を擁するこの美術館に、明治時代の日本絵画のロマン主義的傾向を代表する画家、青木繁の代表作が展示されています。
『海の幸』と題するその作品は、千葉県館山市の布良(めら)海岸で描かれたもので、28歳でこの世を去った彼の代表作です。
横長のキャンバスに、左に向かって列をなして歩いている裸の男たち。獲ったばかりの大きな魚を担いでいます。
この構図は、青木繁が得意とした神話を思わせるイギリス風。
22歳のときの作品です。
唯一、こちらを向いている白い顔の男は、青木の最愛のひと、福田たねのポートレートをもとに画いたと言われています。
『海の幸』を描いている頃が、おそらく彼の全盛期。そこには、青木自身の思いがあふれ、出せる力を全てぶつけた凄みが感じられます。
この絵を画いたのち、展覧会に出す作品が次々に落選し、彼は失意の中、放浪生活をおくり、生き急ぐかのように自らを追い込み、痛めつけ、夭折(ようせつ)します。
将来を嘱望され、才能を約束されたかに見えた彼が、なぜ、落ちていったのか。
そこには、彼自身が自分を追い込む、果てしない夢の存在がありました。
彼が身をもって教えてくれた夢との付き合い方には、明日へのyesが、垣間見えます。
画家、青木繁が、生涯持ち続けた果てしない夢の行方とは?
そして彼の人生が教えてくれる、人生のyesとは?
日本の洋画家、青木繁は、1882年、福岡県久留米市に生まれた。
旧久留米藩士である父は、武士の系譜を継ぐ者。
息子、繁に厳しかった。
幼い頃から祖父に漢詩や書の手ほどきを受けた繁は、早熟で聡明、まわりの子供たちと自分は違うという認識を持った。絵を画く才は、幼くしてあった。
古代マケドニアから出て世界のほとんどを支配したアレクサンドロス大帝を敬愛した。
彼の中に、世界をこの手につかみたいという、壮大な欲求が生まれた。
彼は自伝に書いている。
「僕は、大体、中学にあって、何の学科も相応に出来るので、その中の一つを選んで一生を費やすのは、自分というものがはなはだ惜しいように思われる。数学も科学も非常に好きだが、そのひとつをとって学者になって一生を終わるのは、残念だ」
若さゆえの不遜。傲慢。思い上がり。
通常は、そんな自尊心や自信は早々につぶされ、夢は収まる場所に収まっていく。
でも、彼には絵で世界を表現するという手段があった。
その手段は、彼の夢を増幅させ、増強した。
「僕は、絵を画くことで、アレクサンドロスになる!」
彼は父親に言った。
「中学を中退して、東京に出て美術をやりたい」
父はこう返した。
「美術ではなく、武術の間違いではないのか?」
どんな反対を受けても、青木繁は志を曲げなかった。
夢を持てとひとは簡単に言うが、夢を持つことで、ともすればひとは追い込まれる。
彼を待っていたのは、いばらの道だった。
画家、青木繁は、17歳のとき、中学を中退して、久留米から上京する。
洋画家、小山正太郎の画塾に入門。18歳のときには、東京美術学校、現在の東京芸術大学に入学した。
絵を学びながら、上野の図書館に通い、哲学、文学、宗教学や神話、伝説の書物を手当たり次第に読みあさった。
彼はそこに未来永劫読まれ続け、称賛を受け続けるひとたちの存在を見た。
「自分もそんな作品を残したい」
気持ちは焦る。
永遠に価値を損なわないもの、それを残す自信はあった。ただ、すぐには叶わない。
ホーマー、ダンテ、シェイクスピア、そしてゲーテ。
死してなお、残り続けるものを、残したい。
それこそが彼の野望。それこそが、夢。
画いた。絵を画いた。
題材を探し、実際の風景から、あるいは読んだ神話の世界から、筆を持って具現化を試みた。
全てうまくいく、きっと認められる。不安と自信が混じり合う。
画壇に拒否されるたびに、思った。
「オレが戦う世界は、そんな小さな世界じゃない。オレは全てのジャンルを超え、神になるんだ」
ひとは自分にできる影を見なくてはいけない。
自分が大きくならなければ、影も大きくならないことを知らなければならない。
日本を代表するロマン派の画家、青木繁は、挫折を繰り返した。
画く絵が、思うように認められない。入選したかと思うと、渾身の一作が落選。気持ちがすさむ。
自分自身の存在を否定されているように感じる。
21歳のときに画いた自画像がある。黒い雲がいくつにも千切れ、自分のまわりを覆っている。痩せた体。力のない目。
前途洋々とは程遠い。
ただ、自分でも支えきれないほどの野心があふれている。
夢や野心は、うかつに持てば、身を滅ぼす。
青木を突き動かすものは、いったい何だったのか。
それはおそらく、彼自身が神になること。
伝説になり神話になること。
代表作『海の幸』を最後に、落選が続く。
食べていけずに、郷里に戻る。最愛の女性、福田たねの実家にまで世話になる。
「こんなはずじゃない、オレは、こんなはずじゃない!」
壮大な夢がやがて彼を押しつぶす巨人になる。
妻も子も捨て、放蕩生活に身を滅ぼす。
でも、どんなに心と体を病んでも、絵だけは描き続けた。
「這い上がってみせる、よみがえってみせる!」
亡くなる前年に画いた『夕焼けの海』という作品がある。
凪(な)いだ夕暮の海に、船が浮かんでいる。
まるで自らの死期を悟ったような終末感。ただ、黄色とオレンジに包まれた世界は、優しく、静かだ。
夢への諦めだろうか。いや、そうではない。彼は身分不相応な夢に押しつぶされてもなお、船を前に走らせていた。夕暮の船出。
図らずして、彼の作品は彼が亡くなったあとも、残り続けている。
画家、青木繁は、大きなものを望めば大きなものを失うという覚悟を持っていた。
覚悟こそ、夢への切符。
彼を志半ばと笑うことはできるかもしれない。
でも、生涯を賭けた覚悟を持つことで彼は今も生きている。
アレクサンドロスにはなれなくても、彼は、今の世にも、その存在を留めている。
彼は彼にしかおくれない人生で、yesを示した。
【ON AIR LIST】
ターナーの汽罐車 -Turner's Steamroller- / 山下達郎
道 / 宇多田ヒカル
この世で一番キレイなもの / 早川義夫
閉じる