第三十六話目に見えないものを観る
戦争が終わり、統治下にあった日本において、国民を元気づけるニュースが舞い込みました。
湯川秀樹、ノーベル物理学賞受賞!
日本人初めてのノーベル賞でした。
湯川秀樹は、1907年、東京に生まれましたが、地質学者だった父が京都帝国大学の教授に就任したので、1歳で京都に移り住みます。
「私の記憶は京都に移った後から始まる。やはり京都が私の故郷ということになるのかもしれない」
そう書いています。
父方の祖母は、彼を「ひーちゃん」と言って可愛がりました。
『絵合わせ』という玩具があります。
絵が画かれた幾つかの正六面体を並べて、一枚の絵を完成させるというものです。
湯川少年は、六面体の上の絵の配置を記憶しました。
そして裏側のほうで絵が続くように並べるのが得意でした。
祖母はそんな彼を、誉めました。
「ひーちゃんはすごい!ひーちゃんは、かしこい!」
のちに、父親にあまり評価されなかった時期も、幼い頃、祖母が誉めてくれた声が、いつも彼の心に響いていました。
「ひーちゃんは、かしこい!」
彼は物心ついたときから、「目に見えないもの」の存在に興味を持っていました。
それはときに、恐怖であり、それはときに、やすらぎでした。
ノーベル物理学賞を受賞するまでに、湯川秀樹が見つめた「目にみえないもの」とは?
そこに隠された明日へのyesとは?
日本人初のノーベル賞受賞者、湯川秀樹は、考え続けた。
人間はどうしたら創造的に生きられるのか。
中学生のときは、こんな問いだった。
「自分はいったい、何者であるのか?自分はいったい、何をして生きていくべきなのか?」
そんな問いが、何十年にもわたり彼の心に去来した。
彼には、生涯忘れられなかった体験がある。
京都府立京都第一中学校の一年生だったときのこと。
夏休み、3週間の臨海学校があった。
三重県の津市まで、汽車に乗る。
市内の大きなお寺の本堂に合宿して、毎日、海岸まで歩くことになっていた。
お寺に初めて着いた日の午後、先生が言った。
「いいか、キミたちの中の仲良し同士で、二人ずつ組みをつくっておきなさい」
夜になると、蚊が出るので、かやをつる。
そのかやの中には布団を二つしか並べられず、ペアをつくっておくことが必要だったのだ。
友達は、どんどんパートナーを見つけていった。
でも、湯川だけは、誰も声をかけられなかった。
あっという間に彼はあぶれ、ひとりきり。
生徒の数は不幸にも奇数だった。
ふびんに思った先生が、狭い布団を用意して湯川に持たせ、無理やり、かやの中に押し込んだ。
それは小さな出来事だったけれど、残酷だった。
たいがいの場合、自己発見は、最も孤独なときに訪れる。
物理学者・湯川秀樹は、両親に、姉と兄と弟が二人ずつ、祖父がひとりの祖母が二人という大家族で育った。
家も広く、幼い湯川には、家や庭が全宇宙だった。
小学校時代は快活だったが、中学一年の臨海学校の一件以来、友達と遊ばなくなった。
学校が終わると、真っ直ぐ家に帰り、家から一歩も外に出なかった。
本を読んだ。とにかくひたすら本を読んだ。
文学の世界には、目にみえないものを、物語でとらえる力があった。
『赤い鳥』という童話・童謡の雑誌があった。
「将来、童話作家になれたらいいなあ」
そんなふうに夢想した。
でも作文が苦手で、適正には合わないと自問した。
やがて、文学から哲学に興味が移った。
自分は、世間とうまくやっていける自信がない。
きっと、世間と交わらない世界が合っているのだと思った。
高校時代の後半に、物理学に出会う。物理学に、ロマンを感じた。
目には見えないけれど、この現実の裏側にある現象をひもとくことができるかもしれない。
「ああ、これだ」
湯川は、松尾芭蕉の言葉を思い出した。
『ついに無才無能にして、この一筋につながる』。
物理学者・湯川秀樹は、物理を、ロマンティックなものだと思った。
そう思い続けられることが大事だと考えた。
自分の生涯の仕事、そこにはロマンがなくてはいけない。
まだ知らない世界に触れられるワクワクがないと、続けられない。
目にみえないものにこそ、ロマンがある。
だから見たくなる。知りたくなる。
現実は、痛切だ。甘くない。
現実は予測不可能、いつ豹変するかわからない。
そして現実は複雑だ。
でも、と湯川は言う。
「現実は、その根底において、常に簡単な法則に従って動いているのである」。
その簡単な法則を見つけられるひと。
湯川はそれを、詩人と呼んだ。科学者と呼んだ。
その法則を見つけるための大前提。
それを彼は孤独であることだと説いた。
中学一年生のとき、臨海学校で泊まったお寺の天井。
窮屈なかや越しに見上げた天井のしみや梁の様子を彼は覚えているのではないか。
孤独だった瞬間に、彼は詩人になり、科学者になる階段を上り始めた。
たったひとりであるということ。
そこから始め、そこに帰っていく。
目にみえないものを見るためには、ひとりになる勇気を持たねばならない。
ひとりは、怖い。ひとりは、さびしい。ひとりは、かっこわるい。
でも、ひとりだから、調和を知る。愛を知る。情けや暴力を知る。
彼はそうして、コツコツと歩きはじめた。
「一日生きることは、一歩進むことでありたい」
湯川秀樹。
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