第三百九話隠れた現実を知る
柳田國男(やなぎた・くにお)。
彼が民俗学を体系化するまで、日本における「歴史の研究」は、主に、名をなした偉人の政治的な大事件を扱っていました。
しかし、柳田が目を向けたのは、名もなき市井の人々。
度重なる自然災害や歴史的な出来事に翻弄され、それでも力強く生きてきた庶民の生活や風習に光を当てたのです。
民間伝承や土地に伝わる昔話にも耳を傾け、常に「日本人とは何か?」という問いを追及しました。
彼が民俗学を「農民の暮らしを少しでも向上するための学問」と位置付けたのは、幼い頃の経験と関係があります。
のちに柳田は自らの生家を「日本一小さな家」と称しましたが、貧しい一家は、7人で狭い家に暮らしていました。
毎日、喧嘩が絶えない。
子ども心に「家が狭いせいだ」と思ったと言います。
やがて兄嫁は耐えきれず、家を出て行ってしまいました。
さらに何年にも及ぶ、飢饉を体験。
貧しさや家の狭さはひとの心まで変えてしまう。
そもそも、どうして貧しさが生まれてしまうのか…。
柳田少年の心に芽生えた疑問が、民俗学の扉を開いたのです。
「歴史が教える最も実際的な知恵は、民族が進展の可能性を持っていることである」
そう彼は、唱えました。
民は、常に向上する可能性を秘めている。
それを阻むものとは何か、逆にその背中を押すものとは何か、ヒントは歴史にある。
土地にある。
見過ごされてきた現実にある。
柳田は、それらを繙くため、日本中を訪ね歩き、民俗学を開拓したのです。
東京都世田谷区成城で87年の生涯を終えた偉人・柳田國男が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
民俗学を確立した賢人・柳田國男は、1875年7月31日、現在の兵庫県神崎郡に生まれた。
あたりは戦国時代から続く農村。
古い薬師堂や塚穴があり、村人たちは貧しさを共有していた。
父は村の医者だったが、漢学に目覚め、学問を究めようと一日中、本を読んで過ごす。
町の先生になったり、神社の神官になったりと、好奇心のままに動く。
晩年、柳田國男は、自分の中に父の遺伝を感じてこう述べている。
「移り気な気質は父譲りで、そのおかげで、一生を幾つにも折って、常に新しく使うことができた。感謝している」
幼い國男は、虚弱体質。いつも母の後ろをくっついて歩き、同級生からバカにされ、仲間外れになっていた。
10歳のとき、家屋敷を売ることになり、二里ほど東の村に移る。
家が貧しく、11歳で里子に出された。
さびしい。家に帰りたい。
そんな孤独を埋めたのは、預けられた家にあった膨大な蔵書だった。
「本なら、いくらでも読んでいいよ」
家主に言われ、むさぼるように読む。
実家で禁止されていた大人の読み物も自由に読めた。
日本や中国の古典から、地理学、数学、物理学まで。
やがて家主が驚く。
國男は、そのほとんどの書物をひとつ残らず暗記していた。
12歳で兄に連れられて、初めて訪れた東京の景色を、國男は生涯忘れなかった。
朝まだ明けきらぬ、午前5時の本郷あたり。
通りのガス灯に灯りがともっていた。にじむオレンジ色の光。
それが都会の象徴に思えた。
民俗学の父・柳田國男は、幼い頃、家を転々とする。
13歳から2年間は、茨城県北相馬郡利根町布川に暮らす。
ここで、彼はある神秘的な体験をする。
兄と暮らす家の前に、綺麗な土蔵があった。
土蔵の前には二十坪ばかりの平地があり、数本の樹が植わっていた。
樹の下に、石の祠(ほこら)。
石の扉を開けたくて仕方がない。
おそるおそる、入ってみた。
そこに、ひとにぎりくらいの、美しい蝋石の珠があった。
石に埋め込まれている。
それは祖母が生前、自らの病が治るようにと、一日中、撫でまわしていたものだった。
春の日が差し込み、珠は輝いていた。
あまりの美しさに見惚れ、感極まり、思わず青い空を仰ぐ。
「ん? あれは…なんだ?」
空に、星があった。
澄み切った青空に、数十の星がまたたく。
いま、自分がどこにいて、なにをしているのか、意識が遠のいていく…不思議な浮遊感…。
突然、近くの森で、鴫(しぎ)がギー!と高い声で鳴いた。
急に我に返る。
もしあのとき、鴫が鳴いてくれなかったら、自分はどうなっていただろう。
鴫を鳴かせてくれたのは、祖母ではなかっただろうか。
この体験が、彼を民間伝承へと導いていく。
「この世には、自分が知らない現実が潜んでいる」。
柳田國男は、行く先々の村で、貧困にあえぐ農民の姿を目の当たりにした。
さらに飢饉が追い打ちをかける。
明治18年の頃だった。
町の有力な商家の前で炊き出しが行われた。
國男は、その様子をじっと見ていた。
食糧のない村人が、おかゆをもらうため、土瓶を持って並ぶ。
幼い子を抱えた母親、歩くのもやっとの男、目だけが異様に光り、ぎょろっとこちらを見る。
13歳の國男は、思う。
「貧しさとは、なんだろう」
「どうしてこういうことが、繰り返されるんだろう」
実家が狭く、喧嘩が絶えなかったこと、祠で神秘体験をしたこと、そして、飢饉であえぐ村人を見たこと。
勉強をすればするほど、それらが全てつながっていく。
「学問は、ひとを幸せにするためでなくてはいけない」
そう確信し、東京帝国大学法科を卒業したのち、農商務省農政課に勤務。
日本の農業の在り方について学びつつ、現状の調査をした。
島崎藤村や田山花袋、小山内薫らと、イプセン会をつくり、文学、文芸にも興味を示し、自らも執筆を始める。
暇を見つけては、日本各地を訪れ、伝承される民話を集めた。
柳田國男は、知っていた。
全ての物語は、ひとが暮らす土地に隠れている。
その物語にこそ、現実を知り、打開する先達の教えが宿っている。
【ON AIR LIST】
現実は見た目とは違う / 佐野元春&The Coyote Band
夜明け前 / Tokyo No.1 Soul Set
Cielo People (feat. Sam Gendel) / 笹久保伸(ギター)
遠野物語 feat.あんべ光俊 / 佐藤竹善
閉じる