第一話父になりたかった
軽井沢の美味しい水と豊かな空気が育んだこのパンを買い求め、毎朝、自転車でやってくる外国人のメガネの男がいました。
小さな息子、ショーンを連れた、ジョン・レノン。
自転車のカゴの紙袋からフランスパンが顔をのぞかせています。
彼は、妻オノ・ヨーコの別荘があった軽井沢で、しっかり子供と向き合いました。
亡くなるまでの三年間。軽井沢の風が、雨が、陽射しが、彼の心に家族との幸せな日々を、見せてくれました。
彼、ジョンレノンの父親は、船乗りだった。
ほとんど家にいなかった。母親は、いつもさみしそうだった。
ある日、幼いジョンが学校から帰ると、母親が言った。
「父さんか、母さんか、選びなさい」
右手を父親が、左手を母親がつかむ。
父親を選べば、またみんなで暮らせると思った。
でもふと後ろを振り返ると、哀しそうな母親の背中。
結局、母親を選んだ。でも母親は、男をつくった。
彼は母親のお姉さん、ミミに預けられた。そう、ジョンは思ったに違いない。
「ボクは母に捨てられた」。
叔母さんは優しくしてくれた。
でも、誰にも、必要とされていない自分がいた。
この世に、居る意味がない、そう思えた。
自分の存在に、YESと言えない自分がいた。
ぐれた。やけになった。
十六歳で、また母親に会いにいった。
彼女が彼に教えてくれたもの。
ギター。エルビス・プレスリー。
仲良くなった。母親が、彼のもとに帰ってきた。うれしかった。
でも、交通事故で死んでしまった。
ジョンは二度、母親を失った。
ポールという男に会った。ギターがうまくて、顔が、エルビスに似ていた。彼も、14歳で、母親を癌で亡くしていた。
ジョンは、ポールとバンドを組むことにした。
バンド名は、『ビートルズ』。
故郷、ストロベリー・フィールズの門に、風が、吹いた。それは、どこか、軽井沢を吹き抜ける風に、似ていた。
ジョン・レノンは愛の唄を、歌った。
歌い続け、やがてビートルズは迷走。
自分がどんな音を奏でているのかわからくなった時、ひとりのアーティストの個展を観に行った。
『オノ・ヨーコ』。
ロンドンの小さなギャラリー。真っ白な部屋の真ん中に脚立がある。
「勇気をもって、あがってみてください」
そんな注意書き。
一段、また一段、注意深く、あがる。
虫メガネがぶら下がっている。それを目に当て、天井に書かれた小さな、小さな文字を読む。
『yes』。『yes』。
彼は、ふるえた。自分をどう支えていいかわからないほど、ふるえた。
誰かに、この世をつかさどる、何かに、『yes』と言ってもらったような気がした。
「そうか・・・僕は、ここにいていいんだ」。
『yes』。彼は、初めて、言ってもらえた言葉をかみしめた。
それを言ってくれたひとが、ヨーコだった。
奇しくも名前にNOがある、YESのひとだった。
生涯で、初めてジョン・レノンに『yes』と言ってくれたひと。
ヨーコとの間に、ショーンが生まれたとき、彼は決めた。
「ハウス・ハズバンド」になる。
ヨーコの別荘がある、軽井沢が大好きになった。
木々を吹き抜ける風が、故郷、リバプールに似ていた。
優しくて、乾いている。せつなくて、なつかしい。
雨の音を聴くために、万平ホテルに行った。
ロイヤルミルクティーの香りに満たされながら、ショーンの寝顔を見た。
父になりたかった。自分が知らない、父親という存在に、なってみたかった。
親子三人で泊まった部屋、アルプス館、128号。
窓から見えた白樺、窓から見えた小鳥、窓から見えた家族の在り方。
彼は想像した。この風景のように、全てがつながっている世界を。
軽井沢の街も人も、教えてくれた。
あなたは、ここにいていいんですよ、あなたは、この風景の中の一員ですよ。
その想い出は彼を癒し、浄化した。亡くなるまでの、最後の三年間。
軽井沢が、ジョン・レノンに幸せを見せた。
楽しかった。笑っていた。雨を感じた。風に触れた。
息子ショーンと嗅いだ、ロイヤルミルクティーの香り。
最高に、贅沢な三年間。
彼は思ったのかもしれない。
ヨーコ、いいんだよね。僕は、yesって言っていいんだよね。
自分の人生に、yesって言って、いいんだよね。
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