第三百四話己を生かす場所を探す
松井須磨子(まつい・すまこ)。
最近、NHK朝の連続テレビ小説の、登場人物のモデルとして取り上げられ、話題になりました。
ドラマの中で演じていたのが、イプセンの『人形の家』。
松井須磨子は、近代女性の自立をテーマにしたこの作品で、新劇女優の地位を不動のものにしたのです。
『人形の家』を演出したのは、彼女が尊敬し、愛した演劇人、島村抱月(しまむら・ほうげつ)でした。
抱月が流行していたスペイン風邪に倒れ、命を落とすと、須磨子はあとを追い、32歳の若さでこの世を去ります。
鼻の整形手術や、二度の離婚。
妻子ある男性との恋愛や歯に衣着せぬ物言い。
スキャンダルに事欠かない波乱の人生でしたが、須磨子自身は、ただ、己が信じた芸術に真摯に向き合いたいという一心だったと語っています。
「私は女優としての誇りよりも屈辱の方をより多く感じて居ます。迫害せられて居ます。全体『女』というものは何の場合にも人に媚を呈さなければならないものでしょうか?」
ごくごくフツウに生きたいと望む自分と、舞台女優として芸術に身を捧げたい自分。
常に、その葛藤に悩み続けた生涯でした。
彼女が生まれた長野県松代町には、生家と彼女が眠る墓があります。
松代町は、江戸時代、松代藩の城下町として栄え、須磨子も士族の家系でした。
長野に戻ると、実家の目印は、二つ窓の蔵。
白壁の土蔵が見えると、「ああ、ふるさとに帰ってきた」と、体中の緊張が解けたと言います。
女性として世間と闘い、自らの心に嘘がつけず、傷つくことが多かった彼女にとって、ふるさとの景色、風や匂いは、唯一、ホッとできる拠り所でした。
女優として走り続け、散った、32年間。
松井須磨子が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
新劇女優・松井須磨子は、1886年、明治19年、長野県埴科郡坂城町、現在の長野市松代町に生まれた。
9人兄弟の末っ子。
6歳の時、上田の知り合いの家に養女に出される。
実家を出るとき、振り返ると、そこに土蔵が見えた。
二つ窓の白壁。
朝陽を受けて光っていたが、窓は暗く沈んで見える。
「ああ、きっと、私がいなくなるのを哀しんでいるんだわ」
そう、思った。
大好きなお父さんが見送りしてくれなかった寂しさが、胸に拡がる。
上田で尋常小学校を卒業。
養父が亡くなり、松代の実家に戻ることになった。
遠く、道の向こうに二つ窓の土蔵が見えたとき、涙があふれた。
「ああ、わたし、帰ってきたんだ」
しかし、ほどなくして、父が病の床につく。
亡くなる前、枕元に呼ばれた。か細い声で、父が言った。
「ずっとずっと、おまえのことが不憫で仕方なかった。戻ってきてくれてよかった。さみしい思いをさせて、すまなかったね」
優しい父が、哀しかった。
何か、不吉なことが起こりそうで怖かった。
林の奥から、滝の音が低く響いてきた。
大正時代、日本の新劇活動を牽引した名女優・松井須磨子は、父の死を乗り越えることができなかった。
16歳で上京。
和菓子店に嫁いだ姉の家に居候しながら、戸板裁縫学校に通うが、いつもめそめそ泣いてばかりいた。
夜中、寝付けない。
気がつくと、布団に涙がポタポタ落ちる。
麻布の家を抜け出し、高台から品川沖を眺めた。
月が、海に揺れている。
一度でいい、お父さんに褒めてもらいたかった。
そう思うだけで、やっぱり泣いた。
見かねた親戚が、縁談をもちかける。
結婚したが、1年も経たずして、離縁。
暗く沈んだ性格を舅(しゅうと)に疎まれた。
平凡な日常の中の、つまらない自分。
うじうじ、めそめそして、生きているのか死んでいるのかわからない。
そんな自分が嫌だった。
「変えたい。私は、自分を変えたい」。
幼い頃から、母の影響で芸事や芝居が好きだった。
俳優養成学校の存在を知る。
女優…新しい目標にすがった。
違う自分になりたい。
今いる場所から逃れたい。
そんな思いから芝居にのめり込んでいった。
舞台の上で…泣く。
すると、ひとが褒めてくれた。
思い切り泣いても、誰も疎んじたりすることはなかった。
不思議だ。
舞台の上では、私が私ではなく、それでも、私の根幹に触れる瞬間があった。
松井須磨子は、舞台女優として開花した。
と同時に、二度目の結婚も破綻。
うまく生きられず、フツウに憧れ、フツウに生きるために演劇の世界に飛び込んだはずなのに、気がつけば、のめりこみ、どんどん深い場所に進み、フツウの暮らしがどういうものなのか、わからなくなっていった。
24歳のとき、運命的な人物と出会う。
文芸評論家、劇作家、演出家として日本の新劇運動を推進する、島村抱月。
彼は、一瞬で須磨子の演技に魅かれた。
と同時に、彼女の中にある自己矛盾にも気づいた。
芸術家として秀でた才能があればあるほど、世間との溝が深まり、彼女を孤立に追いやるという事実。
須磨子が理性を忘れ、感情にばかり走れば走るほど、他人から疎まれ、円滑に人間関係がつくれなくなる。
一度貼られたレッテルは早々に剥がれることはなく、扱いづらい女優として刻印されてしまう。
だが、抱月は知っていた。
彼女の芸術に対する狂熱的な愛着には、一点のくもりもないこと。
虚栄心、自己顕示、自己欺瞞などは皆無。
その思いがあまりに純粋で驚く。
須磨子が演じた『人形の家』のノラは、大絶賛を浴びた。
トルストイの『復活』では、劇中で歌も歌い大ヒット。
須磨子は、思い知ることになる。
「私は、舞台の上でしか幸せになれない」。
そして、島村抱月が褒めてくれるとき、なぜか父を思い出した。
ふるさとの土蔵は健在だろうか。
二つ窓の、あの土蔵。
その蔵の下に、着物姿の父が立っているような気がした。
【ON AIR LIST】
ハンキー・パンキー / マドンナ
パパ、見守ってください / バーブラ・ストライサンド
カチューシャの唄 / 森本恵夫(ハーモニカ)
黄昏のビギン / 大竹しのぶ×山崎まさよし
閉じる