第三百十話冷静に今を見る
安部公房(あべ・こうぼう)。
川端康成の絶大なる評価を受け、1951年、『壁―S・カルマ氏の犯罪』で芥川賞を受賞。
映画化もされた名作『砂の女』や、ダンボール箱を頭からすっぽりかぶった男を主人公にした『箱男』など、都市に生きる人間の閉塞感や現実の不条理を、ち密に積み上げられた文章で描きました。
東京で生まれ、満州で育った安部の本籍地は、開拓民だった両親ゆかりの地、北海道。
作家としての立脚点を自ら、「故郷喪失者」と位置付けていましたが、小学2年生から3年生まで、およそ1年半過ごした、北海道旭川市、当時の東鷹栖町での日々は、くっきりと彼の心に息づいていました。
彼が通ったのは、近文第一小学校。
今年開校125周年を迎えるこの学校に通う通学路が、彼の原風景のひとつかもしれません。
冬、一面の雪景色。
道路も畑も何もかもが雪におおわれて、区別がつかなくなる。
道も、溝も、消える…。
不思議なことに、地面が見えているときよりも、学校までの距離が近く感じたと、安部は語っています。
区別なき世界。
安部少年が満州で受けた教育は、「五族協和」。
複数の民族が共存する理想国家を目指すものでしたが、現実とのギャップに戸惑います。
横行する、差別。
民族多様性に逆行する出来事が、あらゆるところで起きていました。
やがて終戦を迎え、安部は、満州と日本という二つの祖国を同時に失ってしまうのです。
常に根無し草。
常に現実と理想のギャップに悩む。
そんな寄る辺ない人生で、彼が自らに課したのは、「今を冷静に見つめる」ということでした。
慌てず、騒がず、すぐに結論を出さなくていい。
でも、今を凝視する。
そこから生まれてくる矛盾や哀しさを、小説にしたのです。
20世紀文学を牽引した文豪、安部公房が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
戦後文学を代表する小説家・劇作家、安部公房は、1924年3月7日、東京、北豊島郡滝野川、現在の北区西ヶ原で生まれた。
安部の祖父母は、駆け落ち同然で北海道に入植した開拓民。
安部の父は、北海道で生まれ、医者になろうと一念発起して東京に出た。
やがて息子が生まれた頃、父は新天地を目指す。
満州の奉天。
生後8か月で、安部は日本を離れた。
奉天の日本人地区は、上下水道も進んでいて、街は碁盤の目のようにスッキリと整備されていた。
町はずれの堤防近くの平屋で暮らす。
家の前の空き地に、人力車を動かす車夫や物売り、猿回しが休んでいた。
物売りは、別の行商人としょっちゅう大声で喧嘩をする。
その様子を安部少年は、ヒモに繋がれた猿と一緒に、じっと見ていた。
「なぜ、そんなに怒るんだろう、なぜ、いつも同じひと同士がいがみ合うんだろう」
理解しようというより、怒るときの表情、動作を見ていた。
奉天には、さまざまな民族と、さまざまな境遇のひとが混在していて、子ども心にもカオスは影を落とした。
幼稚園の頃から、他の子どもとは違う雰囲気を醸し出す。
先生は、積み木で遊ばせるとき、安部のために大きな積み木を注文した。
小さな積み木では、彼の世界観が作れないことを知ったからだ。
世界を作る。
早くも、作家の生き方が始まった。
作家・安部公房の母は、文学に造詣が深く、安部がお腹にいた頃、一冊だけ小説を書いた。
『スフィンクスは笑ふ』。
しかし、その作品を最後に、小説を書くことはしなかった。
母は、幼い安部を監視した。
友だちが遊びに来ても、様子をドアの影から見る。
学校の様子も、事細かく報告させた。
「今日は、どうされましたか?」
「なぜ、それができなかったかを考えてお話なさい」
さらに、自らの文学的な知識や手法を伝授した。
「いいですか、日本文学には、隠すことで、よりリアリティを増すという方法があるのです。満月より三日月のほうが、より月をリアルに感じるのです」
また、細部をこまかく、具体的に描くことの重要性も説いた。
「誰かに何かを伝えるためには、細かいところを見ていないとダメなのです。そのひとは、何色のどんな服を着ていたか、靴は、髪の毛はどんなだったか、しっかり記憶しておきなさい」
安部は、小学生のとき、こんな詩を書いた。
屋台の焼き栗屋の掛け声を入れて。
「クリヌクイ クリヌクイ カーテンにうつる月のかげ」
安部公房は、父がドイツに留学した一年半、北海道に移り住んだ。旭川の小学校。
奉天とは何もかも違う環境にも、決して動じることはなかった。
同級生と親しく話すこともない。
安部の一種、異様ともいえる雰囲気にクラスメートもどう接したらいいかわからなかった。
安部は、決して急がない。無理に仲良くなろうともしない。
ただ、フツウに、ニコニコしていた。
ある日、隣の席の男の子が消しゴムを忘れた。
安部は、それを察して、そっと消しゴムを差し出す。
それ以来打ち解けて、同級生と遊ぶようになった。
東鷹栖町の風景は、どこか奉天に似ていた。
特に雪景色が懐かしい。
世界を全て真っ白に変えてしまう、雪。
区別、差別がない世界。
再び満州に戻るときも安部は、同級生たちの顔をただじっと見ていた。
その眼差しは、優しく大人びていて、全てを包み込むようだった。
混沌としているときこそ、動く前に、見るということ。
無理に動かず、じっと観察することで、道が見つかるときがある。
名作『箱男』で、主人公が段ボール越しに世界を見つめたように、ひとは、今をしっかり見ることを忘れてはいけない。
安部公房は生涯、見えるもの、見えないものを作品に焼き付け、私たちに見せてくれた。
【ON AIR LIST】
砂の女 / ティン・パン・アレー
砂の女(『砂の女』映画音楽) / 武満徹(作曲)
弦楽四重奏曲 第3番 / バルトーク(作曲)、クロノス・カルテット
現実との差異(ON THE TURNING AWAY) / ピンク・フロイド
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