第二百四十九話大切なものは手放さない
森本薫(もりもと・かおる)。
彼の最大のヒット作は、文学座史上最多公演数を誇る、『女の一生』。
昭和の名女優・杉村春子のために書き下ろしたこの作品は、杉村主演で実に947回上演されました。
初演は、太平洋戦争が激化した、1945年4月。
場所は、渋谷の道玄坂にあった東横映画劇場。
娯楽は認められず、どの劇場も封鎖。
たった一軒、開館を許されたのが、この劇場でした。
男性の俳優はほとんどが徴兵で戦地に赴き、残った5人は台本をそれぞれがコピーして持ち、機銃掃射が鳴り響く中、稽古場に向かいました。
「こんな非常時に、果たしてお客さんは来るんだろうか」
誰かがつぶやいたのを聞いて、森本は毅然とした表情でこう返します。
「こんなときだから、演劇が必要なんだ!」
灯火管制で、東京は真っ暗。
B29の襲来で警報が鳴り響き、芝居中に防空壕に逃げ込むこともあったといいます。
それでも、場内は満席。
この芝居見たさに、地方への疎開を延期したひとも多くいました。
5日間の東京公演は、一度たりとも満足に通しで上演することはできませんでしたが、観客からの惜しみない拍手は鳴りやみませんでした。
拍手していた中には著名人も多くいました。
三島由紀夫も、そのひとりです。
初演の翌年、1946年10月6日に、34歳の若さで森本は亡くなりますが、死の床にあってもなお、『女の一生』の改定稿に着手していました。
戦火にあっても演劇の芽を守り続けた劇作家・森本薫が、私たちに残した明日へのyes!とは?
昭和を代表する劇作家・森本薫は、1912年6月4日、現在の大阪市北区中津に生まれた。
小学生のときから、成績は優秀。
卒業式には総代として証書を受け取った。
北野中学から旧制第三高等学校に入学。
内気で、人見知り。
人間臭く、閉鎖的な風土に生まれ育ったがゆえに、濃厚な人間関係が苦手だった。
誰かと話すより、本を読むことを好む。
傾倒したのは、イギリスの作家・ノエル・カワード。
湿った文体の日本文学が苦手だった。
カワードの「人生はしょせん、ひと夜のパーティーにすぎない」という考えや、彼が描く洗練された大人の喜劇に心ひかれた。
そのほかに、ヨーロッパ近代戯曲を片っ端から読む。
20歳のとき、処女作『ダムにて』を書く。
三高の同級生に、後に作家になる田宮虎彦がいた。
田宮は、森本の日本人離れしたセリフ運びに非凡な才能を感じながら、批判した。
「おまえの書くものは、ただの西洋かぶれだよ。人生ってやつは、そんな簡単なもんじゃない。文学っていうのは、もっと深いものなんだ」
田宮の言葉を、森本がほんとうに知ることになるのは、彼が京都帝国大学に進み、胸を患ったときだった。
森本薫は、大学に入学するとすぐに、胸をわずらって1年間の療養生活を余儀なくされた。
毎日、白い天井を眺めながら、死ぬことについて考える。
感情を律し、ささやかな日常に心を震わせる感受性を磨いた。
精神のバランスを保つために、戯曲を書く。
書けば書くほど、自分が生まれ育った風土や風景が心に浮かんできた。
ノエル・カワードが言ったとおり、「人生は、ひと夜の喜劇」。
でも、その一方で、生きることの尊さ深さがわかってくる。
それら全てを描くことができる戯曲に、救われている自分がいた。
演劇は、すごい。
たったひとつのセリフに、哲学をこめることができる。
田宮虎彦の言葉が、胸に沁みた。
田宮と創刊した同人誌に戯曲を発表。
岸田國士(きしだ・くにお)、久保田万太郎と共に文学座を興した岩田豊雄、別名・獅子文六の目に止まる。
こうして、森本薫は文学座の座付き作家への道を進んだ。
日本近代演劇の父、岸田國士は、若き劇作家・森本薫をこう評した。
「森本君の作品には、非常に新しい美しさを感じる。彼の描くリアリズムの中には、知性を織り込んだダンディズムがあるのです。彼は矛盾する二つの素質を持っていたようです。それは繊細なものと強靭なもの」
森本は、文学座である女優との運命的な出会いをする。
杉村春子。
彼女の生い立ちを作品に投影した『女の一生』を書き上げた。
そこには、リアリズムがあった。
艱難辛苦を乗り越える強さと、常にひとに傷つけられる繊細さがあった。
妻や子の体を気遣いながら、杉村との魂の戯曲にのめり込んでいく森本。
戦時下にあっても、彼の演劇への情熱は消えることがなかった。
大阪市中津公園の森本薫文学碑には、『女の一生』のこんな一節が刻まれている。
「誰が選んでくれたのでもない。自分で選んで歩きだした道ですもの」
空襲警報が鳴り響く中、初演を終えた森本薫は、場内の拍手を聴いて思った。
「人間は、誰かの人生を追体験することで明日への活力を見出すことができる。それを具現化できるのが…演劇なんだ」
【ON AIR LIST】
人生という劇場 / ザ・フォーク・クルセダーズ
ひとりだけの旅 / ノエル・カワード(作詞、曲)、イアン・ボストリッジ(テノール)
悲しみシアター(THEATRE OF CRUELTY) / エレン・フォーリー
I'LL SEE YOU AGAIN / ノエル・カワード(作詞、曲)、ローズマリー・クルーニー
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