第三百五十話鈍く平凡であることから始める
河上肇(かわかみ・はじめ)。
彼が書いた大ベストセラー『貧乏物語』を題材にした舞台が、先月、紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYAで上演されました。
このこまつ座の公演は、劇作家・井上ひさしが24年前に書いた戯曲の再演。
河上肇をめぐる、妻、娘、女中など、6人の女性の生きざまを描いた秀作です。
大正5年、第一次世界大戦の好景気に沸く日本に、少しずつ、でも確実に押し寄せる貧富の差に翻弄される人々。
河上は、「貧富のない世界は、実現できないのか」、それでいて、「頑張ったものには、頑張っただけ富がもたらされる社会」は、存在しえないのか。
悩み、苦しみ、その答えをマルクス経済学や無我の愛、利他主義に求めたのです。
いま、なぜ河上肇なのか。
いま、なぜ『貧乏物語』なのか。
あらためて、時代や作品を繙くと、今、私たちが直面している問題に重なるものが見えてきます。
全てのひとが公平に扱われる平等な社会。
その持続の背景にある、経済の発展。
そのために必要な開発という名の欲望。
河上肇は、さまざまな先人の影響を受けつつ、人類永遠の命題ともいえる「貧困」を、生涯のテーマにしました。
戦争の渦の中、危険分子のリーダーと目され、検挙、投獄。
牢獄の中でも、経済や哲学を学び、真理を追い求める姿勢を崩すことはありませんでした。
彼は、最初から頭脳明晰、才気煥発な人物だったのでしょうか。
自叙伝では、自らを、鈍い根っこと書く、「鈍根の私」と称しています。
「鈍く、平凡だから、私は誰よりも時間をかけるしかないと悟りました。私は優秀でも天才でもないところからスタートしたのです」
山口県岩国市出身の唯一無二の経済学者・河上肇が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
大正時代の名著『貧乏物語』で知られる経済学者・河上肇は、1879年10月20日、現在の山口県岩国市に生まれた。
旧岩国藩士の家柄。
父は、村長、町長を歴任する、辺り一帯の名士だった。
しかし、不器用で実直な父は、お金とは無縁。
貧しさはいつも傍らにあった。
肇が母のお腹にいるとき、両親が離縁。
彼は、産みの母を知らずに育つ。
父はほどなく、再婚。
すぐに男の子を出産すると、継母は、肇をいじめた。
片手を持って井戸につるす。
肩が脱臼し、大騒ぎになる。
祖母は肇をひきとることにした。
肇は、祖母に甘えた。片時も離れない。
夜も祖母の隣でないと、眠れなかった。
自分の存在理由に負い目を感じる。
村長だった父は、肇の小学校進学をなぜか急いだ。
4歳5か月で、初等科入学。
このことが、肇のコンプレックスをさらに強くするとは、父は思いもしなかったに違いない。
習字、読み書き、算術。
何をやっても、同級生に負ける。
うまくいかない。
彼はその理由を、おのれの愚鈍さゆえだと思った。
明治、大正、昭和の激動の時代を生きた経済学者・河上肇は、幼少期、わがままに育った。
祖母は、痩せて病弱で不憫な肇を、とことん甘やかした。
肇はたいへんな癇癪持ちになる。
泣きだすと手がつけられない。
あまりの凄さに、大人のほうが離れの小屋に逃げる始末。
学校では、おとなしく、誰かと仲良くなることができない。
ただ、先生が村長である父に忖度し、成績はいつもよかった。
年長になると、肇は世の中のしくみに気づく。
「ボクは、相変わらず、鈍くて平凡だ。
なのに、みんながすごいという。天才だ、神童だとまつりたてる。
そんなことはない。
ボクは、ひとつのことを成し遂げるのに、誰よりも時間がかかる。そのことを覚えておこう。
くれぐれも、誰かより優秀だと思わぬようにしよう」
中学校は、全寮制だった。
食事どき。肇の味噌汁には、具が入っていなかった。
食事の鐘が鳴り、寮生はいっせいに食堂に向かうが、おっとりした肇は、いつも最後。
味噌汁に具は残っていなかった。
誰もが、自分の味噌汁に具をたくさん入れたい。
自分の欲を消す、無我、利他の気持ちがないと、平等に具が配分されることはない。
河上肇は、具のない味噌汁をすすりながら思った。
「人間に、自分の利益より他人の利益を尊重する心を持つことは、可能だろうか。
でも、それをしなくては、誰もが幸福な世の中は訪れない」
河上肇は、東京帝国大学在学中に、衝撃的な演説を聞く。
足尾銅山鉱毒事件に関する救済の会。
田中正造らの話す言葉に、体を撃ち抜かれたような感動を覚え、その場で、まとっていた外套、マフラー、羽織などを寄付。
寒空の中、まるで身ぐるみをはがされたような恰好になる。
「東京毎日新聞」は、「特別な志のある大学生」として取材。
河上は、新聞に取り上げられた。
その後も、内村鑑三を尊敬し、キリスト教にものめりこむ。
「右の頬を打たれれば、左の頬を差し出しなさい」という教えを座右の銘として、絶対的利他主義を打ち立てた。
時には、まわりの賢人の影響に振り回され、自らの主張を、修正、訂正、謝罪することもあったが、基本的に、ぶれない一点があった。
それは、どんなに鈍く、平凡で、むらの多い性格であっても、いまの日本を少しでもよくしたいという理想は、決して失わない。
彼は、こんな言葉を遺した。
「辿りつき振り返り見れば山河を越えては越えて来つるものかな」
ひとによって目指す山は、違う。
でも、山を越えようと思った志は、永遠に心に刻まれる。
【ON AIR LIST】
貧乏ブルース / 桑田佳祐
WISE EYES / Linda Lewis
YOUR MIRROR / Simply Red
HIGHER THAN THE WORLD / Van Morrison with George Benson
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