第三百五十三話他人を敬う心を持つ
武者小路実篤(むしゃのこうじ・さねあつ)。
白樺派の同志、志賀直哉から奈良に住まないかと誘われた彼は、40歳のとき、東大寺大仏殿の西の一角、白壁のたたずまいが美しい水門町にやってきます。
志賀はこんな手紙を書きました。
「大体こんな家だ、手入れはきれいにしてある、とに角ここにきめては如何か」。
奈良に住んだ武者小路は、さっそく『新しき村』の友人に、『奈良通信』と題して、文章をしたためました。
「一言でいうと奈良は気に入っている。
実際散歩の好きな自分には奈良はいい処だ。
川も海もないが、なんとなく落ち着いている。
奈良でいいのは、なんといっても古美術であろう。
くわしいことはわからないが、東洋的な内面的な沈黙的な深さでは、之以上ゆくのはむづかしいと思う」。
自然と社会の共存。
みんながお互いを尊敬し、尊重するユートピア『新しき村』の実現に奔走していた彼にとって奈良は、豊かな自然と芸術性に優れた、理想の地だったのでしょう。
彼は『新しき村』奈良支部を創設。
若き文学青年を集め、激論をかわしたり、画家や詩人を自宅に招き、発表の場を作ったり、地域に文化を根付かせるための活動に、寸暇を惜しみませんでした。
ゲーテ祭、トルストイのお祭り、講演会や展覧会や朗読会を積極的に開催。
1年ほどの奈良での生活で、若者たちに多大な影響を与えたのです。
武者小路が掲げた思想は、「自他共生」。
自分があり、他人があって、共に成長し生きることで社会は発展していく、という考えです。
彼は常々、言っていました。
「人間は自分のために生きていると考えるのはつまらない」。
『友情』『真理先生』『お目出たき人』で知られる作家・武者小路実篤が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
白樺派の文学者・武者小路実篤は、1885年、明治18年5月12日、東京・麹町に生まれた。
父は、子爵の武者小路実世(むしゃのこうじ・さねよ)、母は、勘解由小路家(かでのこうじけ)出身の秋子(なるこ)。
華族の両親、8番目の子どもだった。
先に生まれた5人の兄弟は、相次いで亡くなる。
父も、実篤が2歳のとき、結核でこの世を去った。
父は、岩倉具視(いわくら・ともみ)に重用され、23歳でドイツ留学を果たすなど、いち早く西洋文化や欧米の議会制、民主主義に触れたエリートだった。
父は、癇癪持ちだったが、子どもたちがいくら騒いでも怒らなかった。
逆に、子どもをたしなめる母を叱った。
「元気でいるのが、いちばんだ。そのままにさせておきなさい!」
亡くなる前、3人の子どもたちは、父の枕元に呼ばれた。
父は、実篤を見て、言った。
「この子を、よく育ててくれるひとがあったらいいな。そうしたら…この子は、世界に一人という人間になるのだが」
この言葉は、あるときは実篤を苦しめ、あるときは鼓舞し、気がつけば、いつもこの言葉に背中を押されて人生を生きることになった。
自分は、世界に一人の人間になる。
そんな勇気と決心を、父が授けてくれた。
ゴッホやレンブラントなどの西洋美術を、日本に最初に紹介したとされる作家・武者小路実篤は、幼い時から、優秀な兄と比べられた。
実篤も常にクラスで10番以内に入っていたが、兄は必ずトップ。
体も強く、運動神経も優れていた。
さらに兄は、眉目秀麗な父の血を受け継ぎ、美男子。
実篤は、あばたの多い、お世辞にも二枚目と言われる風貌ではなかった。
でも、母が驚くくらい、彼はコンプレックスを持たなかった。
勉強は、一生懸命やれば誰だってできるけど、自分は、飽きてしまうのでやらないだけ。
風貌も、兄はハンサムなので上級生に目をつけられ、いじめに遭うけれど、自分は、相手にもされない。
こんなに自由なことはない。
「へんな子だねえ、おまえは…」。
それが母の口癖になった。
自分は、自分。誰かと比べても意味がない。
結局、ひとは一人で生きていかなくてはならないと思っていた。
そんな実篤の心を変える、大きな出来事が起こる。
6歳上の最愛の姉が、父と同じ、肺の病にかかった。
18歳で嫁いで、1年が経ったばかり。
母は、姉を実家にひきとり、文字通り、寝ずの看病をした。
兄や実篤が病床を見舞おうとすると、怒鳴った。
「近づいちゃいけません! ぜったい、いけません!」
目に涙をためる母を見たとき、実篤は初めて、この世が自分ひとりで回っているのではないことを知った。
文豪・武者小路実篤の姉は、21歳でこの世を去った。
15歳の実篤は、看病する母をずっと見ていた。
姉が亡くなるまでのおよそ2年間、母は、姉だけのために生きた。
放っておかれて、姉に嫉妬することもあったが、それよりも、母の我が子への愛情に圧倒された。
夜中に「どうしよう、ああ、どうしよう」と、廊下をいったりきたりする母を、襖越しに見ていた。
もし、自分に同じことが起きても、母は同じようにふるまうだろう。
「自分は、自分だ。好きなように生きる」。
そう思いあがっていた己に気づく。
「確かに、自分を保つのは大切だ。でも、今、ここにいる自分は、必ず誰かのおかげで立っている。だから、まわりにいる人の人生を抜きに、自分の人生は語れないんだ」。
青年、武者小路実篤の心に、他者を敬う心が芽吹きはじめた。
彼は、心の行方をさぐる船に、文学を選ぶ。
トルストイを読み、同志、志賀直哉に出会う。
「どうしたら、自分以外の人を心から愛せるだろうか」。
そんな祈りにも似た願いが、彼の心を支配した。
「自分を生かすには、まず、自分の周りの人を尊敬し、尊重することが大事だ」。
そう気づいたとき、彼は、ある理想郷を思い描いた。
誰もが他者を敬い、誰もが自分を生かすことができる、新しき村。
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