第二百六十三話守りを大切にする
その勢いは、アスリートを取り上げるスポーツ雑誌の老舗『Number』が、創刊40年で初めて将棋特集を組んだことでも明らかです。
藤井聡太が棋聖戦に「短めの袖」の着物でのぞんだのは、あるレジェンドの哲学を継承したからだと、話題になりました。
そのレジェンドこそ、岡山県倉敷市出身の昭和の大名人、大山康晴(おおやま・やすはる)です。
公式タイトル、なんと80期。
一般棋戦優勝回数、44回。
通算1433勝。
昨年、羽生善治が、この最多勝記録を27年ぶりに更新しました。
彼は語っています。
「私がこれまで対戦した棋士で最も印象に残っているのは、やはり大山康晴十五世名人だ」。
羽生が初めて大山と対局したのは、羽生17歳、大山64歳のときでした。
その威圧感、鬼気迫る迫力に、驚いたと言います。
「大山将棋のすごさの一つは、指し手そのものの良しあしではなく、相手を見て手を選んでいる点だ。悪手もためらわず指している。相手を惑わすためだろうが、洞察力や観察眼が優れていないとできない芸当だ」。
後に、大山将棋をそんなふうに評しています。
大山の凄さについて誰もが口にするのは、69歳で亡くなるまで、順位戦最上位のA級の座を守り続けたことです。
生涯現役。
晩年は癌と戦いながら、どんな相手にも全身全霊で挑みました。
彼は幼い頃から天才だったのでしょうか?
華々しく妙技で攻めるタイプではありませんでした。
むしろ、地味な「受け」の将棋。
彼はこんなふうに後輩たちに言いました。
「守りの駒は、美しい」
将棋界の至宝・大山康晴が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
将棋界を盛り上げた昭和の大名人・大山康晴は、1923年3月13日、岡山県浅口郡西阿知町、現在の倉敷市に三男として生まれた。
西阿知町は、お花見のときに使う茣蓙(ござ)、花筵(はなむしろ)の名産地。
父は生産会社に勤めていて、生家は、輸出花筵工業組合の事務所を兼ねていた。
母はお菓子や果物の商いの内職で生計を助ける。
長男、次男が相次いで、伝染病で急死。
康晴が家督を継ぐことになった。
西阿知町は、不思議な街だった。
大人も子どもも、勝負事、賭け事が大好き。
子どもが勉強そっちのけでメンコや将棋に夢中になっても、大人たちは叱らなかった。
それどころか一緒になって騒ぎ、熱中し喜んだり悔しがったりした。
大山康晴が最初に将棋を指したのは、7歳の正月。
隣の自転車店では、いつも大人が将棋を指していた。
毎日、見物する。
友だちと見よう見まねでやってみる。
楽しかった。
必ず勝ち負けがつく。
駒の数や種類は一緒なのに、毎回、違う局面になる。
夢中になった。
そのうち、大人が指す一手が、正しいか、間違っているか、わかるようになってくる。
「ああ、そこ?」「ええ? なんで?」
大人たちは、一手指すごとに後ろに立っている大山のつぶやきが気になった。
「気が散るから、ちょっと向こうにいってろ!」
追い払われても、最後まで盤上と共にいた。
勝つものは、勝つべくして勝つ。
大山が面白いと思ったのは、守りだった。
攻めるのが得意なひとは、なぜか守りが苦手。
「この両方ができたら、ボクは強くなれるかもしれない」。
将棋界のレジェンド・大山康晴は、小学校に入学した夏休みに、腸チフスにかかる。
かなりの重症。熱が下がらない。
両親は心配で眠れない。
父の同業者が、「康さん、将棋をさそうか」と誘った。
寝たままで将棋を指すと、熱が下がった。
次の日も次の日も、将棋を指すと、どんどん熱が下がっていく。
医者も頭をひねる。「不思議なことがあるもんですねえ」。
父はたいそう喜び、「康晴、おまえ、そんなに将棋が好きなら、将棋指しになればいい」と言った。
全快祝いに将棋盤と駒をもらう。
母は、茶色の毛糸で駒袋を編んでくれた。
黒糸で、「大山」と縫ってある。
大山は、この駒袋を生涯大切にした。
ぼろぼろになっても色があせても、対局に持参した。
大山康晴は9歳にして、地元・西阿知で後援会が発足。
小学校を卒業すると、大阪の師匠に弟子入りすることになった。
大阪に旅立つ、3月14日の朝は気持ちよく晴れ渡った。
駅に行って驚く。
まるで出征する兵士をおくるようなひとだかり。
クラスメイトたち、商店街のおじさんやおばさん、顔を見れば、みんな一度は将棋を指したことのある大人たちだった。
そのひとたちの顔を見て、大山は思った。
「将棋はいいなあ、将棋のおかげでいろんなひとに出会えた」。
遠く汽車の警笛が聴こえた。
大山康晴は、色紙に言葉を頼まれると、こう書いた。
「方尺の盤上に人生あり」
将棋の盤の上は、人生の縮図だ。
勝っているかと思うと、あっという間に劣勢になる。
負けていても、たった一手で息を吹き返す。
大山の棋風は、地味だと言われる。
信長ではなく、家康。
待って待って、耐えて耐えて、隙をうかがう。
将棋では1回の対局で、5回チャンスがあると考えた。
1回目の勝機を逃しても、焦らない。
守る。必死に守る。
5回目のチャンスさえつかめば、勝てるのだ。
この覚悟が、69年の生涯を現役として全うする源泉になった。
素人は、攻めることばかり考える。
もちろん、攻めの姿勢は大切だ。
でも、人生と同じように、対局の時間も実は永い。
じっくり待てば、突破口は見えてくる。
守れてこその攻めなのだ。
焦るな、焦るな。
大山康晴は、母が作ってくれた駒袋を握りしめ、盤上の人生を生き抜いた。
【ON AIR LIST】
PATHS OF VICTORY / Cat Power
IT JUST CAME TO PIECES IN MY HANDS / The Style Council
CHANGE OF THE GUARD / The Steely Dan
THE WAITING / Tom Petty & The Heartbreakers
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