第二百八十五話外れることを厭わない
近松門左衛門(ちかまつ・もんざえもん)。
書いた人形浄瑠璃は、およそ100篇。
彼の代表作『曾根崎心中』は、それまでの歴史ものではなく、町人の日常に根差した世話物。
武士や貴族などの特権階級のためだけの娯楽だった人形浄瑠璃で、町人社会で実際に起こった心中事件を描いたのです。
心中物は、大ヒット。
歌舞伎の人気演目として、今も上演され続けています。
井原西鶴、松尾芭蕉と並んで、元禄の三大作家として成功を手にした近松でしたが、その人生は決して最初から約束されたものではありませんでした。
福井藩に仕えていた父が越前を離れなくてはならなくなり、京都に流れての浪人暮らし。
貧しさと屈辱を味わい、近松は幼くして、公家に奉公に出ます。
彼自身も武士となりますが、その地位をあるとき、あっさり捨て、町人になるのです。
「物語を書くことに、一生を賭けてみたい」
今の時代で言えば、生活の安定が約束された公務員を辞めて、何の後ろ盾も保障もない、フリーの脚本家になるようなものです。
なぜ彼がそんな人生を選択したのか。
それを知る手掛かりは、彼の辞世の句にあります。
「代々甲冑の家に生まれながら、武林を離れ、三槐九卿に仕え、市井に漂いて、商買知らず、陰に似て陰にあらず、ものしりに似て何も知らず、世のまがいもの」
近松は、自らを「世のまがいもの」と思っていたのです。
だからといって、彼は腐らず、騒がず、ただ自分を生かす道を選びました。
庶民に文化をもたらした偉人・近松門左衛門が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
江戸時代の人形浄瑠璃の作者・近松門左衛門は、1653年、越前国に生まれた。
父は福井藩主に仕えていたが、なんらかの理由でふるさとに居られなくなる。
仕方なく、京都に逃げるように旅立った。
後に近松は、そのときの気持ちを俳句に詠んだ。
「しら雲や はななき山の 恥かくし」
すっかり春になったのに、山には桜が咲いていない。
そんな山が、ひどく恥ずかしい。
山をおおう白い雲だけが、哀しさを知っているようだ…。
京都で浪人として暮らす父。一家の空気は暗く、よどんでいた。
ともすれば沈みがちな環境で、二つのものが近松を支えた。
ひとつは、気丈な母。
「どんな人間にも、春の時期もあれば、寒い風が吹きつける冬の時代もあるのです。大切なのは、冬を耐えられる心を持つことができるか、なのですよ」
そう諭された近松は、春を待つ心を忘れなかった。
もうひとつ彼を支えたもの。
それは、公家に仕えたこと。
貧しさゆえの選択だったが、公家で知識や教養を得ることができた。
特に徒然草を読んだときは、感動して夜、眠ることができなかった。
書物を読むことで、ここではない場所に行ける。
文章を書くことで、救われる。
彼の脳内に、想像という種が植えられた。
元禄の三大作家のひとり、近松門左衛門は、10代の終わりに自らの人生について考えた。
父と同じ、武士の道を歩んだが、どうも自分は他のひとと違う。
どうにも全うに武士を続けられるとは思えない。
何をしてもどこか、自分を偽物、「まがいもの」に感じてしまう。
このまま全てを捨て、仏門に入るか…。
京の町で人形浄瑠璃を見るのは大好きだったが、当時、芸能の世界に身を置くことは、世を捨てることと同じ。
向こう側に行く覚悟はなかった。
彼は、近江国、琵琶湖を望む近松寺に向かった。
そこで、およそ3年の月日を過ごす。
全うに生きられないのであれば、せめて己を律し、仏に仕えて、少しでも「まがいもの」を矯正できれば…。
ある日、和尚に呼ばれ、こう言われた。
「仏門に入りたいという気持ちは、とても尊いものだが、おまえには天が与えた才がある。それは、文をしたためること。その道を極めなさい」
近松門左衛門は、もう迷わなかった。
自分が外れた人間であるなら、外れ続けることに一生を捧げよう。
しょせん全うになろうと思っても、うまくはいかない。
京に戻った彼は、四条河原町にある歌舞伎小屋、人形浄瑠璃小屋、見世物小屋に足しげく通った。
そのうち、歌舞伎役者の坂田藤十郎(さかた・とうじゅうろう)に可愛がられ、小屋で働くことを許される。
給金は、なし。
飯炊き、役者の世話など、なんでもやった。
でも、楽しかった。
今まで観客でしかなかった世界を、裏側から覗く楽しみ。
観客の笑いや涙を見て、芸能の必要性を感じた。
庶民の暮らしは楽ではない。
みんな汗水たらし、働いている。
せめて小屋の中では、現実を忘れたい。
近松の心に、創作意欲が沸き起こってきた。
いま、そこで見ているひとを感動させたい。
自分の書いたもので辛い現実を忘れてほしい。
生きる活力を見出してほしい。
「まがいもの」だからこそ、書けるものがある。
外れた人間だからこそ、伝えられる言葉がある。
そうして近松門左衛門は、江戸時代を代表する作家になった。
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