第三百八十三話日常に光を探す
山口洋子(やまぐち・ようこ)。
五木ひろしの『よこはま・たそがれ』『夜空』『ふるさと』、彼女が作詞してヒットした曲は、枚挙にいとまがありません。
そのひとつ『千曲川』で、五木ひろしは、1975年、第26回NHK紅白歌合戦の白組のトリに、初めて抜擢されました。
長野県千曲市にある、「山口洋子 千曲川展示館」に行けば、どの仕事も手を抜かなった、彼女の足跡を知ることができます。
作曲家・猪俣公章(いのまた・こうしょう)が作ったメロディを聴き、山口は、大好きな島崎藤村の『千曲川旅情のうた』の一節を思い出しました。
そうして書いた歌詞は、多くのひとの郷愁を誘い、歌碑として、今も千曲川のほとりで言葉のチカラを示しています。
歌碑が万葉公園にできたことで、山口はたびたび近くの上山田温泉を訪れるようになりました。
その縁で山口が亡くなったあと、貴重な遺品の一部を譲り受け、功績をたたえる場所として、展示館ができたのです。
展示館には、自筆原稿や愛用したソファ、数々の著書やレコードジャケットが並べられています。
みどころは、再現された仕事場。
彼女は、寝る間を惜しんで、書いて書いて、書き続けました。
適当にやっていると思われるのが嫌で、作詞も本気。小説も本気。
山口の生涯は、まさに波乱万丈でした。
複雑な家庭環境に生まれ、16歳で高校を中退。
喫茶店の店主を経て、東映ニューフェイスに選ばれ、女優デビュー。
わずか2年ほどでやめてしまい、その後、銀座でクラブのママとして手腕を発揮。
店には、吉行淳之介や柴田錬三郎など、名立たる作家や俳優、歌手が集いました。
30歳を過ぎた頃、友人の歌手に詞を提供したことがきっかけで、作詞家デビュー。
42歳からは、小説を書くようになるのです。
彼女の創作の源は、常に、日々向き合い悪戦苦闘する、日常の中にありました。
何気ない暮らしの中にこそ、人間の真実が隠れている。
それを独自の目線で掘り起こしていった稀代の作家・山口洋子が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
作詞家で直木賞作家の山口洋子は、1937年5月10日、愛知県名古屋市に生まれた。
父は事業家として成功していたが、母は正妻ではなかった。
子どもの頃から、頭がよかった。
勉強もできたし、本をたくさん読む。
複雑な大人の事情に巻き込まれたこともあり、幼くして、ひとの顔色を読むことに長けていた。
頼るべきものは、自分しかないのではないか、そんな漠然とした確信が芽生える。
小学生ながら、近所の子どもに勉強を教え、そのお金で、バレエ教室に通った。
16歳のとき、高校を中退。
その後、競輪好きのオーナーに喫茶店をまかされたことで、競輪に興味を抱く。
競輪の車輪が回る音、最後のジャンの響き、人々の歓声。
はまってしまった。
とことんのめりこみ、名古屋だけではなく、岐阜、大垣、一宮まで足をのばす。
気がつけば借金だらけで、喫茶店は営業できなくなった。
ギャンブルの底なし沼を垣間見て、賭け事はやめた。
のちに酒場を始めるとき、このときの経験が役に立つ。
夜のお店と客は、どこか、ギャンブルの構図に似ていた。
酒場のカウンターは、常にあの世とこの世の境目だった。
五木ひろしの『よこはま・たそがれ』やトワ・エ・モワの『誰もいない海』などの作詞で知られる山口洋子は、かつて東映ニューフェイスで女優デビューを果たした。
同期には、佐久間良子、山城新伍がいた。
わずか2年ほどでやめる。
何かが違った。
自分が自分として生きられる場所を求める。
銀座の高級クラブのママ、という椅子に座った。
毎日が闘いだったが、充実していた。
お店で働くひと、やってくるお客様。
全てのやりとりが、勉強であり、試練だった。
知り合いに頼まれて、歌詞を書く。
評判がよかった。でも、納得しない。
「山口さんは、他の人よりいいものを書いてもらわないと困る。他に仕事をしているから、道楽に見られる」とよく言われた。
それには、歯を食いしばり、ひとの何倍も頑張るしかなかった。
『よこはま・たそがれ』は、体言止めで世界をつくる。
言葉を切り取り、とぎすまし、シーンを描く。
幼い頃から見てきた世界が、役に立つ。
42歳のとき、お店の常連だった芥川賞作家の近藤啓太郎(こんどう・けいたろう)に、「小説を書いてみないか」と勧められる。
書いた。
作詞とは違う世界がそこにあった。
たくさんの言葉で、つむぐ日常。男と女。
必死で書くが、やはり銀座のクラブのママという肩書がついてまわる。
書き始めて、およそ5年後。
1985年『演歌の虫』『老梅』の2作で直木賞受賞。
それでもまだ、本気を示すために闘わねばならなかった。
走り抜けた40代。
そうして迎えた山口洋子の50代は、病との闘いだった。
旅先で倒れ、入院。
高血圧、糖尿、満身創痍だった。
さらに、精神的にもバランスを壊す。
机の前にじっと座りながら、頭の中に火を起こすため、薪をくべ続ける生活。
初めて、健康のありがたみを知る。
もっと書きたい、そのために、もっと生きたい。
生と死の狭間を知って、彼女はあらためて、日常の中に光があることを知った。
山口は、エッセイ『生きていてよかった』に、こんなふうに書いている。
「平凡でつまらないことや、哀しくて辛い日常のなかでごくたまにああ“生きていてよかった”という光が、ほんのちらりと垣間見える。それを命綱に生きてゆけるし、結局その程度が人生と呼ぶもののありようかもしれない」
彼女は、生前、よく言っていたという。
「お葬式のときは、『ラスト・ワルツ』を流してちょうだい」
1976年に解散したザ・バンドの『ラスト・ワルツ』。
山口洋子は、最期まで、人生という舞台で踊り続けた。
【ON AIR LIST】
千曲川 / 五木ひろし
よこはま・たそがれ / 五木ひろし
誰もいない海 / トワ・エ・モワ
ラスト・ワルツ / ザ・バンド
★今回の撮影は、「山口洋子 千曲川展示館」様にご協力いただきました。ありがとうございました。
開館時間など、詳しくは公式HPにてご確認ください。
山口洋子 千曲川展示館 HP
閉じる