第二百九十九話信念を貫く
田中正造(たなか・しょうぞう)。
日本初の公害事件と言われる、足尾鉱毒問題。
明治時代、栃木県の足尾銅山では、たくさんの銅が採掘されていましたが、銅を掘った時に出る鉱毒をそのまま渡良瀬川に流していたのです。
毒はたまり、田畑を枯らし、魚や家畜が死に、ついには下流に暮らす人々にまで影響が出ました。
政治家だった田中正造は、この問題に真摯に取り組み、国会でも発言。
即刻、銅山は採掘を停止するよう、訴えました。
彼の発言で社会問題になりましたが、騒ぎが大きくなることを恐れた政府は、話し合いで収束をはかろうとします。
そんなとき、洪水が起き、川が氾濫。
鉱毒の被害は、栃木県のみならず、群馬、埼玉、東京、千葉へと拡がってしまいました。
今から120年前の、1901年12月10日。
田中正造は、当時としては考えられない行動に出ます。
明治天皇に、直接訴える。
直訴状をたずさえ、議院開院式の帰途につく天皇のもとへ歩み寄ったのです。
取り押さえられ、直訴状を渡すことはできませんでしたが、どんなに捕えられ、何度拷問を受けても、自分の主張を曲げませんでした。
弱いもののために、困っているひとのために、自分にできることを精一杯やる、それは、幼い日に母が教えてくれた流儀でした。
彼が遺した、こんな言葉が、今の私たちの心に刺さります。
「真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」
今年、生誕180年を迎える栃木の偉人・田中正造が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
足尾鉱毒事件の解決を訴え続けた政治家・田中正造は、1841年12月15日、下野国安蘇郡小中村、現在の栃木県佐野市に生まれた。
家は、名主。
お金に困ることのない、自由な少年時代を過ごす。
近くに川が流れていた。才川。
湧き水を源流とする、綺麗な川だった。
正造は、そこでタニシや沢蟹、カワエビをとり、泳いだ。
また、才川は農民たちの生活用水でもあり、村の生活に欠かせないものだった。
川のほとりで少年時代をおくったことは、正造の生涯に大きく影響を及ぼした。
古来より、ひとは、川の傍に暮らし、川と共に生きてきた。
川が濁れば、生活が危うくなる。
そのことを身を持って知った。
ただ、やんちゃな子ども時代。
身の回りの世話をしてくれる爺やを困らせた。
ある日、爺やにひどい口のきき方をする正造を、母が怒った。
雨の中、外に出し、家に入れない。
「立場の弱いひと、困っているひとを大切にできないひとは、人間として間違っています!」
「お母さん、ごめんなさい、家に入れてください!」
いくら頼んでも返事はない。
裏の勝手口に回り、母を見た。
母はうずくまり、泣いていた。
我が子にひどい仕打ちをする自分を責めて。
大好きな母が自分のために泣く姿を見て、正造は改心する。
「決めた。僕はこれから、困っているひとのために生きる」
田中正造は、19歳にして父の跡を継ぎ、名主になる。
自ら鍬(くわ)をふるい、藍玉を作り、子どもたちに読み書きを教えた。
農民からの信頼も厚かった。
しかし、穏やかな日々も長くは続かない。
ご領主が江戸屋敷を建設するため、農民から厳しい年貢を収めさせるという。
今でも、ギリギリの生活。
これ以上の負荷では自分たちが食べる分がなくなってしまう。
さらにご領主は建築を請け負わせる商人から、賄賂をもらっているらしい。
正造は、農民のために行動に出る。
江戸屋敷の建築中止を訴えるため、ご領主のもとへ向かった。
だがあえなく捕まる。
厳しい拷問、捕らえられた牢獄は、およそ90センチ四方の寝ても立ってもいられない場所。
正造はそこで、半年以上、耐える。
放免になっても、領地外追放。
職もなく、家族を残し、東京に旅立つ。
知人の家で世話になるが、やがて東北に行き、秋田で下級官吏の職を得た。
ここでも農民の味方になり、人望を集めていく。
それを気に入らない役人がいたのか、ある殺人事件の犯人に仕立て上げられ、投獄。
激しい拷問。
監禁は、3年にも及んだ。
牢獄の中で、正造は古今東西の書物を読み、毎日勉学に励む。
嫌疑が晴れて、自由の身になったとき、彼は34歳になっていた。
さらに、彼を失意の底に突き落としたのは、最愛の母が、病で亡くなっていたことだった。
度重なる厳しい拷問や監禁で、田中正造に、何にも屈しない魂が宿る。
「こうなったら、正しいと思ったことは、とことん貫いてやる。オレにとって正しいとは何か。それは、日々、額に汗して働くひとを守る、ということだ。それこそ、母への弔いになるに違いない」
ふるさと・栃木に戻った正造は、県会議員になり、やがて第一回総選挙で衆議院議員に当選。
その頃、渡良瀬川流域に鉱毒被害が拡がっていく。
川は、そこに暮らすひとの命綱。
正造は、立ち上がった。
議員を辞職して、幸徳秋水(こうとく・しゅうすい)と共に直訴状を作成した。
「在野の平民にすぎない田中正造が、恐れ多くもひれ伏して、明治天皇に申し上げます。
わたくしは、田畑にまみれる身分の低い男であり、法を犯し、道理を越え、陛下の乗り物の前に近づくということは、断じて許されることではなく、命を投げ出す覚悟でございます。
これまで国や民を思って生きてきましたが、最後の信念を持ってお願いいたしたく、どうか、哀れな男の直訴をお読みください」
結局、直訴状は、天皇の手に渡ることはなかったが、正造は、亡くなるまで渡良瀬川のほとりに住み続け、反対運動を続けた。
立ち退きを命じられても、決して動こうとはしなかった。
全ての財産は、活動に使い果たし、71歳で亡くなったときの所持品は、信玄袋ひとつだけだった。
その袋の中には、原稿と「新約聖書」などの書物、そしてなぜか、小石が3つ、入っていた。
その石はもしかしたら、幼い頃、川辺で遊んだときに拾った、彼の宝物だったのかもしれない。
【ON AIR LIST】
RED RAIN / Peter Gabriel
THE WATER IS WIDE / 畠山美由紀
フェニックス / 山下達郎
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