第二百九十八話コンプレックスと共に生きる
船村徹(ふなむら・とおる)。
美空ひばりや北島三郎など名立たる歌手に楽曲を提供。
手がけた曲は、5500を越え、今も歌番組で特集が組まれ、多くのひとに歌い継がれています。
日光街道ニコニコ本陣に併設された「日本のこころのうたミュージアム・船村徹記念館」を訪ねれば、彼の足跡や作曲した音楽の素晴らしさに触れることができます。
彼が紡ぎだした、深い情愛を感じる旋律は「船村メロディー」と呼ばれていますが、そのバックボーンには、ふるさと・栃木が関係している、と言ってもいいかもしれません。
18歳で東京の音楽学校に入学した船村は、自らの栃木弁に激しいコンプレックスを持っていました。
見渡せば、同級生は都会の裕福な家の子弟ばかり。
訛りを笑われて以来、口をきけなくなってしまったのです。
そんな彼の前に現れたのが、2歳上の、声学科に籍を置く、高野公男(たかの・きみお)でした。
高野は茨城県出身。
「おれは茨城だっぺょー。栃木のどこなんだっぺゃー」
そう話しかけられて、すぐに仲良くなりました。
やがて、二人で曲をつくります。
栃木弁が悩みだった船村に、高野は、こう言いました。
「俺は茨城弁で歌詞を書くから、お前は栃木弁で作曲しろ」
春日八郎が歌った『別れの一本杉』は、こうして誕生したのです。
栃木弁のような独特の抑揚。
船村の真骨頂は、親友の潔い助言から産み出されたものでした。
もし、船村が高野に出会わなければ、コンプレックスの渦中に沈み、作曲家になっていなかったかもしれません。
自分の持っているものを大切にする。
そんな思いが、船村の背中を押し続けたのです。
日本演歌界のレジェンド、大作曲家・船村徹が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
大衆音楽界から初めて文化勲章を受章した作曲家・船村徹は、1932年6月12日、栃木県塩谷郡船生村、現在の塩谷町に生まれた。
父は、獣医。
船村は三番目の妻との間にできた子どもで、父・60歳。母・42歳だった。
遅くにできた子どもだったからだろうか。
船村は、父に溺愛される。
欲しいものがあってねだる。
ダメだと言われて泣きまねをする。
すると数日後、必ず枕元に、欲しかったものが置いてあった。
擦り傷をしても、お腹が痛くても、馬や牛の薬を処方された。
馬用の軟膏は飛び上がるほどしみたが、翌日には治っていた。
鬼怒川で魚をとったときの水の音、畑や田んぼの向こうにそびえる日光連山。
日光の街や中禅寺湖のにぎわい。
船村にとって、幼い頃感じたふるさとの、音、風景、匂いは、宝物になった。
父は、音楽が好きだった。
冷蔵庫の大きさほどの蓄音機。
たくさんのレコード。
父は、尺八の師範格。
姉たちは琴を習っていた。
船村は、軍隊で使うラッパが欲しくなる。
父にねだると、ある朝、赤い房のついたラッパが枕元にあった。
夢中で練習する。
やがて、国民学校4年生のとき、吹奏楽部に入り、トランペットを吹くようになった。
出征する兵士がいると、頼まれて『君が代』を演奏した。
栃木の農村にいながらも、戦争の暗い影が押し寄せてくることを強く感じていた。
作曲家・船村徹には、ひと回り上の兄がいた。
幼い船村にとって、兄はヒーローだった。
文武両道。
勉強もできたが、武道も誰にも負けない。
常に冷静な人格者だった。
陸軍士官学校予科に入る。
父の跡を継がず、軍人として生きる道を選んだ。
数少ない、兄との思い出。
上野の精養軒で食事をしているとき、若い兵士がやってきて、兄に「煙草の火を貸せ」と偉そうに言った。
兄は軍服を着ていなかったが、明らかに階級が上だった。
それでも兄は、「はいはい」と言って火をつけてあげた。
「お兄ちゃんのほうが、上なのに」
そう船村が言うと、「いいんだ。お国のために働いているのは兵隊さんなんだから」と顔色ひとつ変えずに言った。
ベトナムのハノイに赴く前、久しぶりに実家に寄った兄は、夜、船村少年の部屋に来た。
「ハーモニカを吹いてやろう」
兄が、何曲も吹いた。
そうして、最後にこう言った。
「よく聞け。おまえは軍人になるな。死ぬのはおれだけでいい。わかったね」
昭和19年、兄が乗った船はアメリカの潜水艦に雷撃された。
23歳の命が、散った。
戦後の歌謡界を牽引した作曲家・船村徹は、18歳のとき、東京の音楽学校に入る。
そこで待っていたのは、運命的な出会いだった。
高野公男。後に苦楽を共にする親友になる。
コンプレックスだった栃木弁を笑うどころか、それでいいんだと初めて認めてくれた男だった。
高野は早々に、学校をやめると言い出す。
「おれは音楽じゃなく、文学をやりたい。詞を書きたいんだ。野口雨情のような、大衆のための詞を書きたいんだ。そのためには人生経験を積まなければならない」
船村も、何かを始めなくてはと思う。
ギターを弾けたので、銀座で流しをやった。
先輩の流しが教えてくれた。
「客の目をみろ。その目で、葬式帰りか、祝いの席からの流れか、判断するんだ」。
コツをつかむと、驚くほどリクエストが入り、稼ぐことができた。
「みんな、音楽で癒され、涙し、笑うんだ…」
たくさんのひとを楽しませる曲をつくりたいと思った。
どこかで、兄も自分の曲を聴いている、そう思って作曲する。
ある夜、高野が言った。
「東京、東京って言ってるけど、東京に出てきた人間は、いつかきっとふるさとを思い出す。おれは茨城弁で作詞する、おまえはそれを、栃木弁で作曲しろ。きっと来るんだ、地方の時代が!」
高野と作った、『別れの一本杉』。
大ヒットしたが、高野公男は、翌年、肺結核で亡くなった。
26歳だった。
高野の分まで生きようと、思う。
船村徹は、亡くなったひとのお墓を胸に抱えつつ、生涯を演歌に捧げた。
【ON AIR LIST】
別れの一本杉 / 春日八郎
王将 / 村田英雄
矢切の渡し / 細川たかし
男の友情 / 船村徹
★今回は、日本のこころのうたミュージアム・船村徹記念館にご協力いただきました。ありがとうございました。
日本のこころのうたミュージアム・船村徹記念館
https://www.nikko-honjin.jp/
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