第二百三十話自らの歩みを止めない
今年は、彼女の生誕200年、没後110年にあたります。
ナイチンゲールは、「物事を始めるチャンスを、私は逃さない。たとえマスタードの種のように小さな始まりでも、芽を出し、根を張ることがいくらでもある」と言いました。
その言葉どおりに、看護師になるチャンスを逃さず、のちに『日本のナイチンゲール』と呼ばれた、和歌山県出身の女性がいます。
國部ヤスヱ(くにべ・やすえ)。
彼女の功績をたたえるとき、決してはずすことのできない出来事があります。
1945年7月9日深夜から7月10日未明にかけて決行された、和歌山大空襲。
B29による和歌山市中心部への爆撃で、市内のおよそ7割が焦土と化し、1000人以上の尊い命が失われました。
22時25分、空襲警報発令。
ラジオが「敵爆撃機、およそ250機が紀伊水道を北上!」と報じます。
この空襲で和歌山赤十字病院も焼失しましたが、1200人近い患者や看護師、同病院付属の看護学校で学んでいた学生は、全員、避難して無事でした。
その避難の指揮をとり、多くのひとの命を救ったのが、國部ヤスヱだったのです。
國部は、当時55歳。看護婦監督を務めていました。
「あきらめないで! 真っすぐ、前を向いて歩いてください! 大丈夫、ぜったい大丈夫。助かります、必ず助かります。だから、歩みをとめないで!」
彼女は叫び続けました。
その声に背中を押され、奇跡の避難が実現したのです。
揺るがない信念を得て、看護師としての人生を全うした國部ヤスヱが、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
日本のナイチンゲール、國部ヤスヱは、1890年、明治23年に現在の和歌山県海南市に生まれた。
幼い頃は、引っ込み思案の人見知り。
近所のひとに会っても、いつも大好きな兄の背中に隠れていた。
ある夏祭りの夜。
櫓(やぐら)から、ねじり鉢巻きの男性が落ちた。
集まったひとは騒然とし、悲鳴があがる。
ヤスヱは、ただただ怯えて兄の姿を探す。
兄は、さっと男性に近づき、足を引き摺る彼に肩を貸し、病院に連れていった。
その素早い対応に驚く。
のちに、兄は言った。
「ヤスヱ、いいかい、誰かが困っているときに手を差し伸べることができない人間は、どんなに裕福でも貧しいんだよ」。
彼女は、そのときの兄の目を忘れなかった。
怒っているような、哀しいような、優しいような。
その最愛の兄が、結核で亡くなる。
母も、結核で命を落とした。
悲嘆にくれる暇(いとま)もなく、今度は父も脳溢血で他界。
ヤスヱは、絶望の淵に立つ。
それでも兄のこんな言葉を思い出し、踏みとどまった。
「ヤスヱ、一生を賭けられる仕事を見つけなさい」
和歌山県出身の日本のナイチンゲール、國部ヤスヱは、中学生のとき、図書室で一冊の本に出合う。
それは、イギリスの看護師、ナイチンゲールの物語。
ナイチンゲールは、クリミア戦争に従軍。
シスターや職業看護師40人余りを率いて、戦地に乗り込んだ。
そこで彼女が驚愕したのは、野戦病院の不衛生だった。
ナイチンゲールが率先し、最初にやったのはトイレの掃除だったといわれている。
病院内の衛生こそ大切であると、進言。
部隊の隊長は聞き入れなかったが、唯一、ヴィクトリア女王だけは彼女の意見を採用した。
さらに、ナイチンゲールは、毎晩ランプを持って、患者を見回った。
心細い思いをしていた傷ついた兵士は、彼女に救われ、生きる希望を見出し、いつしか彼女は「白衣の天使」と呼ばれるようになった。
そんなエピソードを読んだとき、國部ヤスヱの脳裏に、兄の顔が浮かんだ。
「お兄さん、私は…自分の一生を看護師に賭ける」
國部ヤスヱは、21歳のとき、日本赤十字社和歌山看護婦養成所に入り、卒業後は、併設の病院で看護婦として働くようになる。
彼女の働きぶりは、すごかった。
日勤、夜勤など関係なく、朝、夜問わず、自分の担当患者を見回った。
「大丈夫ですよ、きっとよくなりますから」
励まし続ける彼女の姿に勇気をもらう患者がたくさんいた。
一方で、彼女と同じようにできない看護婦は、彼女と比較され、患者から不平不満を受けるようになってしまう。
看護婦監督に働き方を正すように言われると、國部ヤスヱは、こう言った。
「申し訳ありません。私はただ、自分の仕事を全うしたいだけなのです。お願いです。やらせてください。私は、後悔したくないんです」
看護婦監督は、國部に押し切られ、チーム全員が同じ看護ができるメニューを彼女に作らせた。
國部は、みんなに言った。
「仕事の価値は、一度やりすぎてみないとわかりません。お願いです。私と一緒に、患者さんの見回りをやりましょう!」
最初は嫌がっていた看護婦も、國部の看護への熱意を知ると、何も言わず従った。
こうして看護婦たちの中に、一体感が生まれていった。
和歌山大空襲のとき、國部ヤスヱは、避難の際、全員の命を救うことだけを考えた。
しかし、当時の日本は防空法で国民に逃げる事を禁じ、最後まで消火活動にあたる義務を課していた。
「逃げるな、火を消せ」「焼夷弾には、突撃だ」
國部はみんなに「火は消さなくていい、逃げろ」と言った。
「生きること、とにかく生きること」
それだけを伝えた。
炎が行く手をはばむ。
ひるむ学生を励ました。
彼女は、自分にこう言い聞かせる。
「私が諦めたら、全てが終わる。もっと生きたかった兄の分まで、私は、前に進むことをやめない!」
國部ヤスヱは、1951年、国際赤十字委員会から和歌山県民として初めてフローレンス・ナイチンゲール記章を受賞。
看護婦として、最高の栄誉に輝いた。
【ON AIR LIST】
KEEP WALKING / Emily Maguire
THE SOUL SEARCHERS / Paul Weller
FIGHTER / Christina Aguilera
YOU RAISE ME UP / WESTLIFE
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