第二百八十九話己の世界を拡げる
原敬(はら・たかし)。
第19代内閣総理大臣として大正デモクラシーを牽引、生涯、爵位を拒み続けたことから、平民宰相と呼ばれました。
明治維新の荒波にのまれ、裕福な上級武士の家系だった原家は、一気に衰退。
父も早くに亡くした原は、経済的な逼迫の中、苦学で志を遂げます。
岩手県盛岡市にある「原敬記念館(はらけいきねんかん)」は、原の生家に隣接して建てられた記念館です。
民主政治に、文字通り命をかけた偉人の業績をたたえ、政界の貴重な資料や、日々の想いを詳しく書き綴った「原敬日記(はらけいにっき)」などが展示されています。
敷地内の12本の桜。
そのうちの1本、生家の池のほとりにある桜の木は、原の父が南部の殿様からいただいた「戴き桜」です。
65歳のとき、東京駅で暗殺された、原敬。
今年、没後100年を迎えますが、生家の桜の木は時代を超え、春風に揺れながら花びらを散らしています。
今の日本を見て、原敬は何を思うのでしょうか?
記念館に収められている彼の書には、二文字の漢字が書かれています。
無い、私と書いて、「無私」。
私利私欲を捨て去るということです。
原は、総理大臣になっても質素な住居に暮らし、徹頭徹尾、平民として生きました。
お墓に刻まれた文字にも、勲位の明記はなく、彼の一貫した主義主張をのぞかせます。
「余は、殖利の考えなしたる事なし、故に多分の財産なし。去りとて、利益さえ考えなければ、損失する愚もなく」
日本を変えようと藩閥政治に挑んだ賢人、原敬が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
「平民宰相」と言われた政界の革命児、原敬は、1856年、現在の岩手県盛岡市に生まれた。
原家は代々、盛岡藩に仕え、父は軍学を教える学者だった。
裕福な環境の中、5歳で寺子屋に入る。
原は、幼い頃から眉目秀麗。
歌舞伎スターと見まがうほど、美しい顔立ちをしていた。
時は慶応4年、鳥羽伏見の戦いで、薩長同盟を中心とする連合軍が圧勝。
江戸に向かった。
戊辰戦争が激しさを増し、寺子屋の先生も兵士として駆り出された。
やがて、秋田に進軍した盛岡藩は破れ、新政府軍に降伏した。
盛岡藩は、七十万両の賠償金を払うことになり、藩士はすべからく、家禄を辞退。
原家も、お金や刀などを差し出し、借金を背負った。
東北は賊軍、一山百文と蔑まれる。
この屈辱を生涯決して忘れないために、原敬は自分の号を、一山(ひとやま)と書いて、一山(いつざん)と読ませた。
いつか天下をとってやる、そう心に誓った。
岩手県出身の政治家、原敬は、14歳のとき、盛岡藩の藩校に入学。
勉学に励んだ。
漢学、歴史、作文、全てにおいて優秀。
先生は、彼の将来を期待した。
原には、夢があった。
東京に出て、天下をとりたい。あの屈辱をはらしたい。
母に相談する。
母は、しばらく考えたあと、静かに言った。
「わかりました。お金はなんとかしましょう」
屋敷の一部を売って、お金を用立てる。
当時、鉄道は通っておらず、盛岡から仙台まで歩き、仙台の港から品川まで、船で三日かかった。
激しい船酔いの果てに到着した原は、品川の風景に驚いた。
行き交うたくさんの人たち。活気あふれる街。
「これから、私はここで戦い抜くんだ」
意気揚々と、一歩踏み出す。
ところが半年もしないうちに、実家に泥棒が入り、お金を奪われる。学費を工面できなくなった。
いきなり出鼻をくじかれたが、この出来事が原敬を大きく変えた。
困っている原に友人が、授業料、寄宿料が免除されるカトリックの神学校を紹介してくれる。
そこで出会ったエブラル神父は、勤勉な原を見込んで、こう言った。
「もっと自分の世界を拡げなさい。あなたは、とても優秀です。でも、その力をあなただけのために使うのは、よくない。世の中のために使うのです」
17歳の原敬は、エブラル神父に、異国の文化や風習を教わった。
雑用もやることで、特別にフランス語も習う。
さらに神父の布教に同行。
新潟など各地をまわった。
神父から聞く、アメリカやイギリス、中国やフランスの話。
真のデモクラシーが存在していた。
全国各地を巡ることで、ひとびとの暮らしについて、多くの気づきがあった。
こまめに日記を書いた。
このとき学んだフランス語と、日々の思いや発見をメモすることは、彼の人生に大きく影響を与えた。
「己のうらみをはらすためだけに立身出世を望んでいた自分は、なんて小さい人間だったんだろう。学ぶというのは、誰かの役に立つことであるべきだ」。
自分の世界を拡げることで、彼に、この世の中を少しでもよくしたいというあらたな志が生まれた。
19歳で、一度盛岡に戻った彼は、実家でこう宣言した。
「私は分家して、士族を捨てます。これから平民として生きます」。
その後の人生も決して順風満帆ではない。
猛勉強の末、せっかく入った司法省法学校も、学校の食事についての抗議活動の首謀者にまつりあげられ、放校処分。
しかし、決して腐らず勉強を続けていたら、新聞記者の道が開け、さらに見聞や人脈を広めることができた。
やがてフランス語の能力を見込まれ、外務省に入省する。
原敬は、うまくいかないことがあっても、学ぶことを怠らない。
己の世界を拡げることを諦めない。
一歩でも前に進んでいれば、誰かが手を差し伸べてくれる。
そう信じ続け歩むうちに、1918年、大正7年、内閣総理大臣になった。
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