第六十五話選んだ仕事に誇りを持つ
彼は日本経済新聞の『私の履歴書』で、出身地石川県について、こんなふうに述べています。
「北陸は古くから仏教信心の盛んな地である。それも浄土真宗の信徒でほとんどが占められている。むろん私の家も浄土真宗であり、両親もまた熱心な信者だった」
と語り、京都や金沢、小松などから住職をお招きして聴聞したことを述懐しています。
雪に閉ざされる冬と、加賀藩に代表される華やかで文化的な風土。
土地はひとの心を育み、原風景はのちの人生を暗示します。
犬丸は、ホテル経営に命を捧げ、結果、日本のホテル業界全体に多大な財産を残しました。
それは、世界を融和する開かれたホテル事業。
奇しくも2020年に東京オリンピックを控えた日本は今、インバウンドの流れにのっています。
でも、昭和初期、観光が世界平和の一翼を担うという発想は、誰にでもできたことではありませんでした。
戦前戦後、帝国ホテルを守り抜いた男の歩んだ道は、決して平坦とは呼べないものでした。
むやみにひとにアタマを下げぬふるまいから傲岸不遜(ごうがんふそん)となじられ、苦渋の決断にも関わらず揶揄(やゆ)され、いくつもの試練をくぐりながらも、ただひたすらにホテル事業発展のために我が身を捧げた犬丸徹三。
彼が、93年の生涯の中でつかんだ、明日へのyes!とは?
元帝国ホテル社長、犬丸徹三は、1887年、明治20年、石川県能美市に生まれた。
幼い頃は大人しかった。
勉強は優秀。親の言うこともよくきく子供だった。
小学生のときは、毎日往復16キロを歩いて通った。
4年間、無遅刻無欠席。通う自分より、毎朝弁当をつくってくれる母の苦労に感謝した。
日の出とともに起きる習慣は生涯、貫かれることになる。
中学に進学したことにより、世界が拡がった。
ここでも勉学にいそしみ、成績はいつも上位だった。
剣道をやった。でも自己流を通す。
小手や胴には目もくれない。ひたすら面ばかりを打った。
真正面からぶつかる。下手な作戦は立てない。ひたすら面を打つ。
その流儀は、どこか犬丸の生き方に似ていた。
難関の東京高商に入学。現在の一橋大学だ。
ここで犬丸の人生が大きく変わる。
約束されたエリートの道だったが、学内のストライキの指導者として校長や文部省におしかける。
退学すれすれで免れたものの、活動に入り込み、成績は惨憺たるもので、卒業生のうち、下から数えて3番目だった。
就職口が、ない。犬丸は、世間の風当たりの強さを初めて知った。
しかし、時に茨の道は成長へのレッドカーペットになる。
元帝国ホテル社長で、日本のホテル業界を牽引した犬丸徹三は、焦った。
就職できない。
たまらず教授に紹介してもらったのが、満州鉄道が中国に経営するホテルだった。
長春ヤマトホテル。
「どんな仕事をするんですか?」
犬丸が尋ねると教授が言った。
「ボーイ、フロント、コック、なんでもだよ。ホテルはみんなそうやって現場を経験していくもんなんだ。頑張れば2年くらいでマネージャーになれるかもしれない」
選んでいる暇はない。犬丸は中国に渡った。
最初はボーイ。お客に頭を下げ、慇懃(いんぎん)な口調で応対する。
恥ずかしい。顔は赤くなり、屈辱感でいっぱいになる。
「こんなことをするために、一橋を出たわけじゃない!」
それは、イギリスのホテルで修業をしているときのことだ。
毎日毎日、窓ふきばかりが仕事だった。心にやってくる虚無感。
「オレはいったい何をやっているんだ」
ホテルにはもうひとり初老の窓ふきがいた。
黙々と仕事する彼に犬丸はこう問いかけた。
「ねえおじいさん、あなたは毎日、こんな仕事を続けて、それで満足しているんですか?」
老人は黙って犬丸を廊下に連れて行き、二つの窓を見せて、こう言った。
「犬丸、これを見ろ。この二つの窓を見比べろ」
片方は綺麗に磨き上げられ、片方は埃にまみれていた。
「窓を磨けば綺麗になる。綺麗になれば、その一事をもって私は限りなく満足を覚える。自分はこの仕事を生涯の仕事として選んだことに、ただの一度も後悔したことはない」
犬丸は打ちのめされた。
仕事に貴賤はない。あるのは己の仕事への対峙の仕方のみ。
犬丸は変わった。
磨かれた窓のように、心が晴れた。
犬丸徹三は、ロンドン在任中、その立派な働きぶりを評価され、クリスマス休暇をもらう。
みんなが働くときに、休める優越感。
しかし、ちっとも楽しくなかった。
これまで自分のためだけに働いてきた。
友達も知り合いもいないキラキラ光るイルミネーションの通りを肩をすぼめて歩く。
このわびしさは、なんだろう。
そうか、仕事とは分かち合うもの、誰かを幸せにするものだ。
以来彼は、人と人を結び付け、仲間を集い、新しい出会いの場をつくることに奔走した。
ロンドンからニューヨークに渡りホテル修行を積んでいた頃、東京の帝国ホテルから招かれた。
副支配人として来ないかという声がかかった。
犬丸徹三、32歳のときだった。
新館の着工を任され、建築家のフランク・ロイド・ライトと渡り合い、耐震性にすぐれたホテルを完成させる。
犬丸には、忘れられないライトの言葉がある。
「ホテルはその国の文化の程度を端的に表現するものである」
新館のお披露目の日が、大正12年9月1日だった。
午前11時58分。激しい揺れに襲われる。関東大震災。
なんという巡り合わせだろうか。全ては天の思し召しと、奮闘した。
幸い建物はびくともしない。窓ガラスは一枚も割れなかった。
火災も逃れたので、独断で宿泊料を無料にして避難所として開放した。
シチューやにぎりめしを提供、最前線で走り回った。
新聞社や報道関連の事務所としても活用してもらい、都内の会社の出張所にも使ってもらった。
トラックを派遣し近郊の農家から野菜を仕入れ避難者に提供。
あっという間に現金は底をついた。
犬丸は外務省に走り直談判。お金を借りた。
日本人だけではない、在日外国人にも憩いの場を与えた。
ホテルは、ひとがつくるもの。
犬丸は危機を脱し、復興のさなかにあってもそのことを忘れなかった。
ふと、あの窓ふきの老人の言葉が胸をよぎる。
「この仕事を選んだことに、ただの一度も後悔はない」
【ON AIR LIST】
時のないホテル / 松任谷由実
youthful days / Mr.Children
Tugboat / Galaxie 500
All Through the Night / Cyndi Lauper
参考文献:『私の履歴書』(日本経済新聞社刊)
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