第二百三十八話全ての基準を善に置く
土門拳。
酒田市飯森山公園にある土門拳記念館は、日本で最初の写真美術館。
白鳥が飛来する清廉な湖のほとりにあります。
1974年、酒田市名誉市民第一号になった土門は、自らの作品を全て故郷に贈りたいと願いました。
記念館の設立には、彼の友人たちがその才能を結集。
設計は、ニューヨーク近代美術館の改装を手掛けた谷口吉生。
中庭の彫刻は、イサム・ノグチ。
庭園は、草月流第三代家元・勅使河原 宏が手がけました。
さらに、入口近くに置かれた石に「拳湖」、こぶしに湖という文字を刻んだのは、詩人の草野心平です。
土門拳という圧倒的な求心力が、この記念館を造ったのです。
彼が主張したのは「絶対非演出の絶対スナップ」。
徹底的にリアリズムを追求し、『ヒロシマ』に代表される報道写真や、閉山した炭鉱に暮らす子どもたちを追ったスナップなど、市井のひとびとの暮らしに寄り添いました。
一方で、文豪や政治家など著名人のポートレートにもこだわり、川端康成や志賀直哉、棟方志功など、被写体の人格までもあぶりだす力強い写真は、今も、見るひとの心をわしづかみにします。
写真に命や思想、写す人間の魂までも焼き付ける作業は、ときに周りとの軋轢を生みました。
日本画の大家、梅原龍三郎を撮影したときは、あまりに土門が粘るので、梅原が激怒。
座っていた籐椅子を床に叩きつけましたが、土門は眉一つ動かさず、撮影に没頭。
結局、梅原は折れ、生涯で最高の一枚の写真が誕生したのです。
どこまでも自然光にこだわった土門は、東大寺、二月堂のお水取りの写真でも、真夜中にも関わらず、一切、人工照明を使いませんでした。
何度失敗を繰り返しても、信念を曲げない。
たいまつに照らされる表情は、まさしく「鬼」の形相だったと言います。
なぜ彼はそこまで強くなれたのでしょうか?
なぜ彼はそこまで揺るぎない自分を手に入れることができたのでしょうか?
リアリズム写真の巨匠・土門拳が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
土門拳は、1909年10月25日、山形県飽海郡坂田町、現在の酒田市に生まれた。
父は会社員、母は看護師。
貧しかった。
両親は出稼ぎに行くことが多くなり、土門は祖父母の家で育てられることになる。
6歳のときの記憶。
借金取りがやってきて、祖母を責め立てる。
ひとを蔑んだ口調、荒々しい足音が怖くて炬燵にもぐりこむ。
祖母が泣いていた。優しい祖母が、おいおいと泣いていた。
悔しかった。
布団を噛んで、土門も泣いた。
「貧乏だからだ、貧乏だからだ」
この悔しさ、哀しさは、彼の心の中心に、いつまでも居座り続けた。
でも、外に出れば、町一番のガキ大将。
彼が「みんな、あつまれ~」と大声を張り上げると、年上の子どもまでぞろぞろと姿を現した。
家の物干しざおを持ち出して、チャンバラごっこ。
夕方、家に持って帰るのを忘れ、祖父にひどく叱られる。
小学校にあがるとき、東京の両親に引き取られることになった。
酒田から、伯父と夜行列車に乗る。
不器用な伯父は、夜中になっても汽車の窓を閉めることができない。
土門は、ぶるぶる震えながら窓の外を見る。
底知れぬ暗闇が、どこまでも拡がっていた。
写真家・土門拳は、幼い頃、画家になりたいという夢を抱いた。
物心ついたときから感じていた孤独。
寂しさと哀しみが、彼に繊細な観察眼を与えた。
彼が画く絵の大人びた視点に先生は驚いたが、土門は、ただ見たままを描いただけだった。
十五号の薔薇の絵は、横浜美術展覧会で入選。
非凡な描写力は、すでに花開いていた。
授業料が払えず、中学校を辞めようと思うが、成績優秀で学費は免除。なんとか卒業できた。
本当は進学して美術を学びたかったが、やはり貧しさのため断念。
日雇いの仕事を続ける。
絵のことは忘れることにした。
絵をやっても食べていけるわけがない。
まずは、働くこと。
働いて、お金を稼ぐこと。
ただ、虚しさがつきまとい、ひとつの職場で長続きしない。
夜学の法科に通うが、それも辞めてしまう。
何か、夢中になれるものが欲しかった。
食べていくためだけではなく、情熱を傾けられるもの。
24歳で、遠縁の写真家の弟子になる。
絵心があるということで採用された。
初めて、カメラに触れた。
冷たい感触。それはただの機械。ただの道具。
でも、ときに写真が肉眼を越えるときがある。
その瞬間が、面白かった。
彼は思った。
「いい写真というのは、写したんじゃなく、ただ撮ったものをいうんだ。そこには計算はない」
それは土門拳が、26歳のときのこと。
師匠のお使いで電車に乗った。
午後の夏の陽射しが降り注ぐ車内。
向かいの席の白い帽子をかぶった女の子が、大きな口をあけて、あくびをした。
愛らしい倦怠感。
そこには、かつて自分が味わうことができなかった、幸せで退屈な日常が凝縮されていた。
彼は少女を、妬みや卑屈ではなく、善なる気持ちで眺めた。
柔らかな愛で見つめた。
パシャ。
土門はその瞬間を写し、「アーアー」というタイトルでアサヒカメラという雑誌に投稿。
入選した。
その写真が入選したことで、写真家の大家、名取洋之助の日本工房に入ることが許され、土門の世界が拡がった。
土門拳は、のちに言った。
「写真はあくまで善意のもので、従って写真家はこの世の最も善意の人である、というのがぼくの信念だ。人を傷つけるために、人を陥れるために、悪意をもってカメラを向けることがあってはならない」
自らの出自に恨みを抱くことなく、ただ善意で世界を眺め続けた土門の写真は、戦後、失意のどん底にあった日本人を励まし、癒し、やがて彼は、世界一優しい「鬼」になった。
【ON AIR LIST】
THE CAMERA NEVER LIES / Michael Franks
MIDNIGHT TRAIN TO GEORGIA / Gladys Knight & The Pips
PHOTOGRAPH / Diane Birch
BE THANKFUL / The Notations
【撮影協力】
土門拳記念館
http://www.domonken-kinenkan.jp/
閉じる