第二十六話人がやらぬことをやる
この地の別荘を見渡す丘に、ある銅像があります。
千光稲荷神社の近く、参道横の並木道の先にあるのは、堤康次郎の像です。
台座に刻まれた文字は、元総理大臣の佐藤栄作によるもの。
緑の中に威厳を持って立っている銅像は、右手にステッキを持ち、左手はポケットに入れています。
西武グループの創始者にして、衆議院議員、「ピストル堤」の異名を持つ、日本の風雲児。
異名を知っている人には、左手のポケットの先には、ピストルがあるのではと想像してしまうほど、圧倒的な存在感です。
彼は、かつて、何もない平原だった軽井沢の土地を買い、この地をリゾートエリアに変えた先駆者のひとりです。
さまざまな事業に挑戦し、挫折や失敗を味わいながら、西武グループを大きくしていった康次郎の原点とでもいうべき開発。
それが、この千ヶ滝なのです。
後に彼は言いました。
「私は、ひとのやらぬこと、やれぬことのみをやった」。
浅間山麓のゴツゴツした黒い溶岩群を、「鬼押出し」という観光地に変えてしまった男、軽井沢の中心地から離れた沓掛(くつかけ)を、一大レジャータウンにしてしまった男、堤康次郎。
彼が心に持っていた人生のyesとは?
実業家にして政治家、西武グループの創始者・堤康次郎は、1889年3月7日、滋賀県に生まれた。
実家は農家で、麻の仲買もやっていた。
5歳で母が亡くなる。彼は妹とともに祖父母に預けられた。
農業のかたわら、肥料などの商いをする祖父を幼少のころから手伝った。
祖父は相場などにも手を伸ばすが、失敗に終わる。
祖父の遺言はこうだった。
「堤の家の再興は、金を儲けよというのではない。金儲けもよいが、それより名誉ある堤家にしてくれ」。
康次郎は、故郷の土地を担保に金を借り、早稲田大学に入学した。
大学では、今で云う学生企業家。
あらゆるベンチャーに手を出した。造船、郵便、真珠。
政治活動も活発に行い、人脈を作った。
何をやってもうまくいかない。
そんな彼が最後の頼みの綱に選んだのが、不動産だった。
1915年。26歳の堤康次郎は、当時の軽井沢、沓掛駅に降り立つ。
黒い詰め入りの学生服に帽子、マントを羽織っている。
郵便局も、鉄工所の経営もうまくいかず、背水の陣で乗り込んだ。
知人を介して彼はこんな情報をつかんだ。
「長野県軽井沢には、今、西欧人が集まっている。避暑地として、これから発展しそうだ」。
彼の商いのアンテナはそれを逃さずキャッチした。
沓掛は、軽井沢の別荘地から離れていてまだ手つかずだった。
いきなり村長に会いにいき、こう言った。
「僕は、大隈重信公の秘書です。ここに別荘地を作りたいと考えています。100万坪くらいのできるだけたくさんの土地を売ってくれませんか?」
堤康次郎の申し出に、村長たち住民は、困惑し、拒否した。
見ず知らずの若者に、売るわけにはいかない。
ただ、悪くない話ではあった。
国道が完成し、ますます中山道はすたれていくだろう。
かつて沓掛宿(くつかけしゅく)として栄えた宿場町も次の一手を打たねばならぬ時に来ていた。
若者は、諦めなかった。何度も何度も、村長の家の戸を叩いた。
「お願いします!お願いします!ここを別荘地にしましょう!」
100万坪買うと言っておきながら、帰りの電車賃が無く、地元のひとに借りることがあったという。
ある日、康次郎は、大金を持ってきた。
今のお金でいう数億円にもなる札束を村人に見せた。
村長は、ふっとため息をつき、「わかりました」と返事をした。
実は、このお金、半分は友人から見せ金として借りたもので、残りの半分は新聞紙だった。
こうして、26歳の若者に、未来が託された。
ここから康次郎の快進撃が始まる。
堤康次郎は、1918年に「千ヶ滝遊園地株式会社」を設立。
何もない土地に、道路をつくり、水道、電話、電灯など、インフラの整備を始めた。
100坪の土地に2部屋の山小屋風の別荘を建て、売り出す。
土地付き別荘は人気を博し、瞬く間に売れた。
「千ヶ滝温泉」という共同浴場もつくろうとした。
ただ、お湯の温度が低い。
万座温泉の湯を引こうと浅間山を車で移動。
そのとき、浅間山から噴き出した溶岩が固まったゴツゴツした岩を見た。その異様な光景に感動を覚える。
「ここは、観光地になる」
すぐさまその土地を買う。使い道のない土地は、安く手に入った。
誰も見向きもしないものに価値を見つけ、そこに価値をつくる。
誰も来ない場所に、みんなが来たくなるものをつくる。
康次郎は、黒い奇岩群を「鬼押出し」と名付けた。
軽井沢の人気観光スポットの誕生だった。
中軽井沢の土地開発の成功を受けて、彼は箱根にも着手する。
強羅、仙石原、芦ノ湖、ここでも100万坪を手に入れ、「箱根土地株式会社」を設立。これがのちのコクドに発展する。
軽井沢の開発も手を緩めなかった。
軽井沢プリンスホテルの開業。
戦後のゴルフブームを見据えた、軽井沢72の開設。
このゴルフ場の設計には、当時としては珍しく、外国人の設計士に依頼した。
アメリカの有名ゴルフ場設計者、ロバート・ジョーンズ氏。
地蔵ヶ原一帯は、リゾートゴルフ施設に姿を変えた。
プリンスというブランドは、軽井沢で開花した。
康次郎の先を見る目。それはおそらく、若い頃の失敗に裏打ちされている。
「二匹目のどじょうはいない。どんなに辛くても、最初のどじょうを狙う。ひとがやらないこと、やれないことをやる!」
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