第三十五話影を濃く描く
黒澤明や小津安二郎、後には、山田洋次や新藤兼人にも影響を与えた映画界の宝。
1909年11月8日生まれですから、1910年3月23日生まれの黒澤明とは、同年代ですが、なぜ彼の作品があまり知られていないのか。
その理由は何より、彼が若くしてこの世を去ったことに起因しています。
1937年、山中が監督した『人情紙風船』の封切り当日に召集令状が届き、彼は中国に出征しました。
中国各地を転戦した、翌1938年9月17日、赤痢のため、野戦病院で息をひきとります。享年28歳。
彼のお墓は、彼が生まれ育った京都にあります。
上京区大雄寺。
ここには、彼の石碑も建てられています。
石碑には、刻まれた文字。
幾多の名作を世に出したこと、その作品の完成度の高さ、絵の美しさ、日本の文化への多大なる貢献が讃えられています。
今から80年近く前に公開された遺作『人情紙風船』。
タイトルとは裏腹に、長屋で暮す庶民の日常と悲哀が綴られています。
冒頭の雨のシーン。誰もいない夜の長屋に打ち付ける雨。
それはまるで、第二次大戦後に一世を風靡したフィルム・ノワールのようなファーストシーンです。
『第三の男』を彷彿とさせる、光と影の使い方。
俯瞰と、細かいカット割り。
常にキネマ旬報のベスト映画に名を連ねていた小津安二郎は、彼の才能に感動して、わざわざ京都に出向きました。
夭折の天才映画監督、山中貞雄。
どんな苦労の中でも映画を撮り続けた、彼が見つけた明日へのyesとは?
山中貞雄は、1909年、京都市東山区に生まれた。
父は、扇をつくる職人だった。
もうできるはずはないと思っていた矢先にできた子だったので、両親にも兄にも姉にも「貞雄、貞雄!」と可愛がられた。
旧制の京都市立第一商業学校に入学。
白線をつけた帽子、金ボタンの制服、編み上げの革靴にゲートル、ズックの肩掛け鞄。
家族はそんな山中を誇らしい目で見ていた。
ところが、勉強をしなかった。
教室では寝ているか、教科書に漫画を描いていた。
それでいて、成績は真ん中より上、20番以内だった。
運動神経は悪かったが、数学が得意だった。
ほぼ毎日、活動写真に通った。
父が脳卒中に倒れ、寝たきりになってしまった。
教室を、校庭を、映画街を、走り回り、嬉しいことがあると相手に飛びついて、へへっと笑った。
父が亡くなり、家計は苦しくなったが、兄たちも母も、山中だけには学校を卒業してほしいと願い、せっせと稼いだ。
学校で、後の映画仲間になる、2人の人物に出会う。
松竹下賀茂撮影所の脚本家になる、藤井滋司と、日本映画の父と呼ばれた牧野省三の長男、マキノ正博だ。
18歳で商業学校を卒業すると、1年先輩だったマキノ正博を頼り、撮影所に入れてもらう。
でも、ここからが、苦難の始まりだった。
大好きなもののそばにくると、ひとは必ず試練の階段に足をかける。
映画監督・山中貞雄は、18歳でマキノ正博の撮影所に入るが、さっそくダメだしを食らう。
動きが悪い。役に立たない。
助監督や脚本の仕事はもらえず、ロケの届け出をする事務仕事ばかりになった。
そんな山中を案じ、マキノは、山中を嵐寛寿郎のプロダクションに移籍させる。
「ここなら、もっと映画制作のそばにいられるんじゃないか」
マキノの優しさだった。
生活はきつかった。
極貧生活の中、山中はひたすら脚本を学んだ。
図書館に通い、猛勉強。
採用されるあてのない脚本を書き続けた。
しかし、嵐寛寿郎のプロダクションは、スポンサーに逃げられ、風前のともしび。
山中は、ライトを担ぎ、プロマイドを売り歩き、ふんばった。
でも結局、独立プロは解散となった。
19歳の暮れ。京都の実家に久しぶりに帰った山中を見て、兄は絶句した。
後に彼は語った。
「人間とは思えぬ形相だった。髪は伸び、髭で人相はわからなくなり、服はボロボロ。風呂に入っていないのか、真っ黒で、貞雄なのかどうなのか、わからなかった」。
家族、親せき一同、もう映画はやめなさいと言った。
でも山中は、へへっと笑ってこう言った。
「ボクは、やめませんよ。出会ってしまったから、人生を全部使っていいものに」。
映画監督・山中貞雄にチャンスが訪れる。
20歳のとき、嵐寛寿郎の主演作『鞍馬天狗』や、『右門捕物帖』などの人気シリーズの脚本をまかされるようになった。
アラカンこと嵐寛寿郎の山中に対する第一印象はこうだった。
「動作がのろく、髭が汚い。どてらを着て会社にくる、煙草の空箱を帯にくくりつけ、灰は膝に落とす。箸にも棒にもかからん、アホに見えた」
でも、脚本の才能に、誰もが感動した。
幼い時から活動写真を見続けた経験に、寝食を忘れる努力。
緻密で計算され、カット割りがしっかり書かれた脚本こそ、彼の武器であり、命だった。
22歳で、初監督デビュー。
その作品『磯の源太 抱寝の長脇差』は、大絶賛を受け、キネ旬ベスト10の8位に入賞を果たした。
ちなみに、このときの1位が、小津安二郎監督の『生まれてはみたけれど』だった。
『人情紙風船』を撮ったあと、山中は言った。
「これが、最後の作品になるのは、嫌やなあ」
この映画を観たアラカンは感銘を受け、「もう一度、山中と組みたい」と思ったという。
でも、山中は二度と新しい作品を撮ることができなかった。
彼の作品に通底しているひとつの印象がある。
影が濃い。だからこそ、光が生きる。
悲哀を描く。死を映す。
でも、それに負けないひとたちの姿を、ときには声だけで、ときには小川を流れる紙風船で表現する。
彼は父の死をあまり語っていない。
でも、そのときの想いは、彼の心に深く刻まれ、映画に刻印された。
深い影こそが、日常という光を見せてくれる。
【ON AIR LIST】
僕の中の少年 / 山下達郎
Heartbeats / Jose Gonzalez
The Weight / The Band
一日の終わりに / ハナレグミ
閉じる