第百八十二話自分が自分であることを喜ぶ
重力に逆らうようにくるんと両端が上に曲がった、奇妙な口ひげの男を知っていますか?
日常を一瞬で非日常に変えてしまう、シュールレアリスムの巨匠、サルバドール・ダリ。
ダリが亡くなって、今年、30年になります。
ダリのコレクションで知られる、福島県の「諸橋近代美術館」では、4月20日から開館20周年の企画展としてダリの特別展を開催します。
常識をぶち壊す、彼の絵画の在りようがつぶさにわかる展示になると、今から注目が集まっています。
柔らかい時計は、時間に縛られている我々現代人への警鐘なのでしょうか。
いえ、もしかしたら、ダリはダリ自身のためだけに絵を画いたのかもしれません。
ダリの強い自己顕示欲は、彼のこんな言葉に現れています。
「私は、毎朝目を覚ますたびに、喜びで体がふるえる。どんな喜びなのかって? それは、私がサルバドール・ダリだという喜びだよ。このサルバドール・ダリという男が、今日一日いったい何をしでかすのか、心からワクワクするんだ」
彼は、天才を演じ切れば天才になれると信じていました。
「ボクなんかしょせん…」とか「どうせ頑張ったって…」とかいうひとを、心の底から軽蔑しました。
「自分のやることを愛せないやつが、他に何を愛せるっていうんだい? 教えてくれよ」
挑戦的なまなざしは、絵画にも投影されています。
彼は、ただの誇大妄想狂だったのでしょうか?
ただひとを挑発するだけの奇人だったのでしょうか?
ひとつだけ言えるとすれば、彼は彼自身を愛さなくてはならない事情があったのです。
唯一無二の芸術家、サルバドール・ダリが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
シュールレアリスムの芸術家、サルバドール・ダリは、1904年スペインのカタルーニャ地方に生まれた。
父は、高名な公証人。母も、裕福な家柄だったので、経済的には何不自由ない生活が約束された。
ダリは、物心ついたころから、甘やかされている自分に気がついていた。
「サルバドール、何がほしいの? なんでも買ってあげるわ」
「サルバドール、どうしてこんなにうまく落書きができるの? あなたは天才じゃないかしら」
特に母のダリへの崇拝ぶりは凄かった。
まるで王様、まるで神のような扱いだった。
早熟で頭のよかったダリは、4歳で公立の小学校に入学した。
まわりは、貧しい家庭の子どもばかり。
蝶ネクタイをして、ピカピカのジャケットを着こんだダリは、完全に浮いてしまう。
クラスメートから、いじめられる。
それでもダリは、気にしなかった。
「ボクは、王様なんだ。関係ないよ」
ところが5歳のとき、天地がひっくり返るような、衝撃の事実を知ることになる。
寝る前、枕元で母が言った。
「サルバドール、いつかあなたに言おうと思っていたんだけど、実はね、あなたにはお兄さんがいたの。でも、2歳の誕生日の直前、病気で死んでしまったわ…。そのお兄さんの名前がね、サルバドールっていうの。つまり、あなたは、お兄さんから名前を引き継いだのよ」
5歳のサルバドール・ダリは、ショックだった。
「なんだ、そういうことか、お父さんもお母さんもボクを愛していたんじゃない、死んでしまったお兄さんを愛していただけなんだ。ボクは、お兄さんの代わりなんだ」
ダリは、勉強する意欲をいっさい失ってしまった。
「頑張って褒められても、それはボクが褒められているんじゃない。お兄さんが褒められているんだ…」
成績はどんどん下がり、アルファベットさえろくに覚えていない息子に、父も母も激怒した。
放課後。家に帰れずに、ひとり教室に残っていたダリに声をかけた教師がいた。
エステバン・トライテル先生。
トライテルは、気持ち悪いほどの青い目と、長いあごひげを三つ編みにした、奇妙な教師だった。
「ダリ君、キミにいいものを見せてあげよう。こっちにおいで」
トライテルに連れられて職員室に行くと、いきなり古びた箱を出してきた。
「いいかい、開けるよ」
中に入っていたのは、古い教会を巡ってトライテルが収集したガラクタだった。
蝋燭台、十字架のネックレス、懐中時計、赤茶けた少女の絵…。
ダリは、そのガラクタから匂い立つ背徳感や厭世観、そして消え去るものへの郷愁に興奮した。
「好きかい、こういうの」
「はい、好きです」
「ダリ君、いいかい、自分がいいと思うものだけ信じるんだ。いいね」
サルバドール・ダリは、あまりの成績の悪さに怒った父親に転校させられてしまう。
辺鄙(へんぴ)な田舎にある小学校。
しかも、授業はフランス語だった。
先生の言っていることが、ひとつもわからない。
仕方なく、ダリは、窓から毎日空を眺めた。
校庭の糸杉を見て思う。
「なんだかブドウ酒にひたしたみたいな、黒ずんだ赤だなあ…」
校舎の壁のシミを見て、想像する。
「あそこに魔女がいるぞ。今から悪いやつらを食べにやってくるんだ」
やがて、彼は嘘をつくようになる。
「ボクのお父さんはね、医者なんだ」
また、話を勝手に脚色して感動的に盛り上げ、みんなから涙をさそったりした。
彼の虚言癖は、自己顕示欲の最初の扉だった。
やがて絵を画くようになると、キャンバスに嘘を書き続けた。
こんな世界あるはずない。
こんなこと起こるわけがない。
絵を見たひとにそう言われるたびに、彼は言った。
「ボクにはこう見えるんだから、仕方ないじゃないか」
ダリの心の叫び。それは…
「ボクはお兄さんじゃない。ボクを見て、お願いだから、ボクを見て」
だからサルバドール・ダリは、自分で自分を愛する。
誰も自分を愛してくれないなら、せめて自分だけは自分を諦めない。
自己顕示欲を肥大させて、彼は、巨匠になった。
【ON AIR LIST】
SKETCHES OF DALI / VAHAGNI
LA NOCHE MAS LARGA / BUIKA
1976年 リーツェンブルガー通り / VIA PEREZ CRUZ
LOOK AT ME / JOHN LENNON
閉じる