第三百五十一話聞くチカラを取り戻す
宮本常一(みやもと・つねいち)。
宮本は「暮らしの中の工夫こそが文化」と考え、農村漁村を訪ね、失われていく民具や、生活の中に残る言い伝えを、丁寧に掘り起こしていったのです。
彼のアプローチは至ってシンプル。
とにかく聞くこと。
地域の老人、先人の話に、ひたすら耳を傾けました。
そのフィールドワークを書き記したエッセイは、現在の旅の形、観光業にも影響を与え続け、多くのファンの支持を集めています。
明治29年6月15日、三陸地方を襲った大きな津波。
宮本は、ある村のひとたちは、みな高台に逃げ、全員助かったと、老人に聞きました。
なぜ、逃げたか。
それは、沖の方で、ノーンノーンという音がしたから。
昔から、その音がしたら危ない、という伝承があったのです。
静けさの中では、自然の音を聴くことができる。
さらに人間同志の心も、読み取ることができる。
宮本は思いました。
人間は、生活とともにあった自然界の音を、そして、人間同志の何気ない言葉の響きを、聞き分けるチカラを失ってしまったのではないか…。
彼は、全国を歩きながら、生活に根差したたくさんの物語、言い伝えを聞くことで、自らの、そして現代に生きる我々が早々に捨て去ったものを、取り戻そうとしたのです。
瀬戸内海に浮かぶ、屋代島で生まれた宮本は、農家、郵便局員、学校の教師など、職を転々としますが、ひとつだけ、心に決めていたことがありました。
それは、「誰かに必要とされる人間になること」。
おまえは、邪魔だと言われないように、存在理由を意識する。
貧困や病気と闘いながら、自分なりに生涯をかける仕事に出会えたのは、32歳のときでした。
聞くチカラで、日本人の生活誌をまとめあげた賢人・宮本常一が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
民俗学者・宮本常一は、1907年8月1日、山口県大島郡、現在の屋代島、周防大島町で生まれた。
瀬戸内海で、淡路島、小豆島に次ぐ、三番目に大きな島、屋代島。
金魚のような形をしているところから、金魚島とも呼ばれる。
『古事記』にも記され、『万葉集』にも詠われた、由緒ある島だったが、住民の生活は厳しかった。
明治17年にはハワイ政府から移民の募集があり、新天地を求めて4000人あまりの島民が海を渡った。
常一の家も、貧しかった。
母は、常一を産む寸前まで畑で働き、父は、蚕の生産でなんとか生計を立てようとしていたが、なかなかうまくはいかない。
常一も、幼い頃から父や母の仕事を手伝った。
父がたったひとつ、やかましく注意したのは、所作。
姿勢、態度、動作の美しさを注意される。
鍬(くわ)を振り下ろすとき、腰を曲げすぎると、怒られた。
鍬についた泥を手でとると、叱られた。
「所作が全てだ。所作は、安全、効率、から生まれた。そして何より、見ていて美しいということが大事なんだ」
夏の土用草を刈るとき、よく手を切ったが、それも「へっぴり腰で、恐る恐るつかむから、手を切るんだ。しっかりと固く握れば、ほら、手は切れない」と手取り足取り、教えてくれた。
こうして常一は、父から古くから伝わる工法や工具の使い方を学んだ。
民俗学者・宮本常一は、幼い頃、母と一緒に桑の葉を摘みにいくのが好きだった。
家では、蚕がお腹をすかせて待っている。
母は大きな籠を背負い、常一を連れて、山の奥に分け入った。
ある夕暮れ時、激しい雨になった。
大きな樹の根元は、雷が危ない。
母は、背負っていた空っぽの籠の中に入るように言う。
二人で籠の中。上には、むしろをかけた。
母に抱かれて、雨の音を聴いていた。
ポツポツと雨がうちつける。
母は、唱歌を口ずさむ。美しく、幸福な時間。
やがて、雨は勢いを無くし、むしろをはがすと、黒い雲は去って、青空が見えていた。
常一は、後年、つらいことがあると、そんな母との時間を思い出した。
どんなに激しい雨も、やがてやみ、青空が待っている。
雨の音と、母の歌声。
常一は、大自然の中で、さまざまな音を聴き、そこに意味があることを学んでいった。
民俗学者・宮本常一のことを、彼の恩人でもある、渋沢栄一の孫・渋沢敬三(しぶさわ・けいぞう)は、こう評した。
「日本の白地図の上に、宮本くんの足跡を赤インクで印していったら、日本列島は真っ赤になる」。
宮本を敬愛していた作家の司馬遼太郎は、彼の死に際し、こう述べた。
「宮本さんは、地面を空気のように動きながら、歩いて、歩き去りました。日本の人と山河を、この人ほどたしかな目で見た人は、少ないと思います」。
宮本は、幼い頃から、たとえばカラスの鳴き方ひとつで、さまざまな情報を得られることを知った。
どこかの家で、不幸があったときの鳴き声。
イワシがたくさん獲れるときの鳴き声。
明日の天気も、風の音、木々のざわめき、雲の流れで判断した。
静かに耳をすませ、世界にあふれる音を聴く。
その所作は、フィールドワークで出会う老人たちへのインタビューにも生かされた。
宮本が汚れたリュックサックを背負い、ズック靴で現れ、満面の笑みで「やあ、こんにちは」と挨拶すると、たいていの人は心を開き、彼に自らの歴史を語り始める。
彼はエッセイにこう記した。
「私の一生は 伝書鳩のようなものであったのかもわかりません」。
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