第百十一話震える弱いアンテナを大切にする
当時、NHKのアナウンサーだった山根基世は、自らが担当していた『土曜ほっとタイム』というラジオ番組の最終回に、茨木のり子に出てほしいと思いました。
山根は憧れのひとに手紙を書きました。
「詩の朗読をはさみつつ、ぜひ、お話を聞かせていただきたい」。
茨木は、出演を快諾しました。
書いた本人を目の前に、詩の朗読。
「詩を読むのではなく、言葉を音声化させていただきます」
山根は緊張して、そう言ったそうです。
朗読した詩の中に『汲む-Y・Yに-』という作品がありました。
この詩には、作者と思われる主人公が、ある素敵な女性に出会い、感じたことが書かれています。
その女性のイニシャルは、Y・Y。
彼女は茨木さんに、こんなことを教えます。
何よりも大切なのは、初々しさ。
だから、大人になってもどきまぎしても、いい。
顔が赤くなっても、かまわない。
頼りない生牡蠣のような感受性は、そのままでいい。
そうして詩は、こんなふうに結ばれます。
「あらゆる仕事 すべてのいい仕事の核には 震える弱いアンテナが隠されている きっと…」
震える弱いアンテナは、現代社会を生き抜くためには必要ない、そんな風潮を感じる昨今、彼女が山根の出演依頼に応えたのも、山根の震える弱いアンテナに触れたからだと思えてなりません。
感受性は人間が生きる証であると訴えた詩人・茨木のり子が、その生涯でつかんだ明日へのyes!とは?
詩人・茨木のり子は、1926年、大阪市に生まれた。
父は長野生まれの医師。スイス・ベルン大学に留学した秀才で、母は山形の庄内平野で広い敷地を持つ、農家の娘だった。
縁あって、二人は結ばれ、大阪、京都、愛知と居を移し、長女、のり子を授かる。
母は、家の中ではお国言葉の庄内弁で自由闊達に話し、外ではしおらしく標準語を使った。
のり子は子ども心に、そんな母の言葉の使い分けにおかしみを感じ、やがて日本語のリズム、多様性に魅かれていく。
「母の二刀流で、私は言葉のおもしろさに気づいた」と語っている。
東北弁の持つユーモアや暗喩が好きだった。
しかし、大好きだった母は、のり子が11歳のとき、結核で亡くなった。
母を喪って2年後に、新しい母がやってくる。
気持ちは複雑だった。簡単に気持ちを切り替えられるはずもない。
茨木のり子の弱いアンテナは、常に震え続けた。
新しい母は、東京出身。綺麗な標準語を話すインテリだった。
母のずうずう弁が懐かしい。泣いた。
父に見られないように、泣いた。
言葉や声が愛おしい。
のり子にとって、母は生涯、たったひとりだった。
奇しくも、茨木のり子の人生は、最愛のひとを喪うときこそ、言葉について深く考えるきっかけになった。
彼女の心のアンテナは、言葉づかいに細かく応えた。
「お母さんに、逢いたい」
太平洋戦争に突入したとき、詩人・茨木のり子は、女学校の3年だった。
もんぺ姿に、竹やり。良妻賢母と軍国主義が校内を満たしていた。
成績優秀だった茨木は、学校の中隊長に任命される。
全校生徒400人に、号令をかける。
「かしらァ…右ィ!かしらァ…左ィ!!分列に前へ…進めェ!」
大声で叫ぶ。声はあたりに響いた。
自分の声を受けた、みんなの一糸乱れぬ様が心地よかった。
おかげで、声は枯れた。
声帯がつぶれ、以来、低くしゃがれた声がコンプレックスになった。
戦況は厳しさを増し、医学系の専門学校に通っていた茨木らにも動員がかかった。
終戦の夏。茨木は世田谷区上馬にあった薬品工場で薬の壜の詰め替えや倉庫の在庫調べ、防空壕掘りなどをしていた。
風呂には入れず、全身真っ黒。19歳だった。
茨木は、度重なる空襲警報に、思ったという。
「もう、いいや。なんだか嫌になった。ここで死んでもいいから、みんなと一緒に防空壕に入るのはやめた。これで死んでも、自分の死ではない。虫けらみたいなもんだ。自分の死を死ぬ権利さえ、私には、ない」。
茨木は、のちに詩に詠んだ。
わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした
詩人・茨木のり子は、戦争が終わった途端、新聞が民主主義を叫ぶことに違和感を持った。
昨日までのあれは、なんだったんだろう。
喪失感と、虚無感。何を信じていいか、わからない。
薬学を学ぶ気も失せた。
混乱の東京。バラックが立ち並び、闇市にひとが群がる。
そんなカオスの中、茨木は、不思議な空気を放つ一角を知る。
焼け残った有楽座、帝劇。
食べることすらままならない中、新劇が復活していた。
イプセンの『人形の家』、シェイクスピアの『真夏の夜の夢』。
暖房のない劇場でひとびとは震えながら芝居を観た。
その中に、茨木の姿もあった。
感動した。涙があふれる。
世の中にこんなに素晴らしいものがあったのか!
心の飢えこそが、最も辛いことに気がついた。
特に、山本安英(やまもと・やすえ)という女優に強く魅かれた。
自分で戯曲を書きたい。彼女に演じてほしい。
そう思い、戯曲募集に応募。結果は選外佳作。
でも、憧れの山本安英が、励ましの手紙をくれた。
まだ女性の書き手が少なかった。うれしかった。
主義主張ではない。私は自分の感受性で勝負したい。そう、思った。
山本の自宅を訪ねる。その所作や言葉の美しさに心をうたれる。
山本は療養中だった。病気は、母と同じ結核だった。
「あなたの、震える弱いアンテナを大切にしなさい」
そう背中を押してもらったように思った。
私は、一生、言葉と向き合って行こう。茨木は、心に誓った。
彼女の『汲む-Y・Yに-』という詩のY・Yとは、山本安英のことだ。
茨木のり子が、生涯大切にした山本からもらった色紙には、こう書かれている。
静かにゆくものは
すこやかに行く
健やかにゆくものは
とおく行く
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