第二百六十四話心のこもった仕事をする
その作家とは、岡山市に生まれ、岡山を愛した、内田百閒(うちだ・ひゃっけん)です。
百閒は『古里を思う 後楽園』という随筆の中で、こんなふうに書いています。
「私は古京町の生れであって、古京町には後楽園がある。子供の時から朝は丹頂の鶴のけれい、けれいと鳴きわたる声で目をさました」。
彼にとって日本三名園のひとつ、岡山の後楽園は、「一生忘れる事の出来ない夢の園」でした。
大好物だった岡山銘菓、大手饅頭は、夢に何度も出てくるほど。
あまりに岡山が好きすぎて、後年、変貌するふるさとの姿を見るのが辛くなり、かえって故郷に足を踏み入れなくなったと言われています。
夏目漱石の門下生の中でも異彩を放ち、独特のユーモアと価値観で周囲を驚かす天才。
文章のうまさは誰もが認め、小説や随筆は、多くの作家に影響を与えました。
芥川龍之介も、彼の作品を認めたひとりです。
1993年に公開した黒澤明の監督生活50周年の記念映画『まあだだよ』は、百閒とその教え子たちの心温まる交流を描いた作品です。
黒澤は、百閒の生き方、そしてひととの接し方の中に、「今、忘れている大切なもの」を見つけ、それを留めたいと願ったのです。
百閒は、教え子や孫たちに、こう語りました。
「みんな、自分の本当に好きなものを見つけてください。見つかったら、その大切なもののために、努力しなさい。きっとそれは、君たちの心のこもった立派な仕事となるでしょう」
戦前戦後を駆け抜けた名文家・内田百閒が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
名作『阿房列車』シリーズで知られる作家・内田百閒は、1889年5月29日、岡山市に生まれた。
実家は、古京町に代々続く、川のほとりの造り酒屋。
裕福な幼年時代を過ごす。
同居する祖母に可愛がられた。
祖母は毎晩添い寝をして、幼い百閒に、地元に伝わる民話を語った。
氏神さまや妖怪、自然の驚異や人間の愚かさを、話して聞かせる。
百閒は、物語に魅せられた。
この世には、科学で解明できない不思議な世界があることを、心に刻む。
婿養子だった父は、家に寄りつかず放蕩三昧。
たまに帰れば家の女性陣にこっぴどく怒られた。
そんな父の姿を見ても百閒は、決して父をひどい人間だとは思えなかった。
父は幼い百閒の頭をくしゃくしゃと撫で、いつもにっこり笑った。
百閒が16歳のとき、父が急死。
これを契機に、実家は傾き、借金まみれの貧窮生活が待っていた。
のちに内田百閒は、『冥途』という小説を書く。
そこで主人公は亡くなったはずの父親と居酒屋で再会する。
父を失った喪失感が、百閒を作家の道にいざなった。
父を失った中学生の内田百閒は、ある小説を読んで、体中に電流が走るような感動を覚えた。
夏目漱石『吾輩は猫である』。
ユーモアと皮肉。人生観と死生観。猫に託した思い。
小説の力、文章の巧みさに圧倒された。
学校からの帰り。
濠(ほり)に挟まれた道を同級生と歩きながら、熱く語る。
「漱石はすごいよ、ほんと、漱石はすごいよ」
しかし友だちは、漱石という名前を読めないほど、文学を知らなかった。
ただひとり、堀野寛(ほりの・ひろし)という級友だけは、百閒の思いをわかってくれた。
堀野とは、一緒に俳句を詠み、漱石を語った。
堀野の自宅に招かれたとき、彼の妹・清子に出会う。
ひとめぼれだった。
百閒は、清子に恋文を書き続けた。
文章を書くことは全て、恋文のようなものだと悟った。
誰かに伝えたい思い。
それがなくては、何も始まらない。
親友・堀野が20歳で亡くなったとき、再び、百閒は思う。
文章を書くというのは、大切な記憶をとどめる行為でもある。
文筆業で身を立てたい。
貧しさの中にあって、作家という夢は、ひとすじの光だった。
内田百閒は、同人誌に掲載された年老いた猫の小説を、心酔していた夏目漱石に送った。
どうせ返事などないだろう、そう諦めていた矢先、ことんと郵便受けに返事が来た。
懇切丁寧な批評。
「筆つきが真面目で、なんのてらいもなく、自然の風物の描写もうまい。ただ、通読するほどの興味を持ったかというとそうでもなく、もう少し文章に工夫が必要だ。ただし、観察眼や文章を書く姿勢には、将来を感じる」。
そんな内容だった。
うれしかった。涙がこみあげるほど、感動した。
「そうか、僕は書き続けてもいいんだ」
背中を押してもらった。
すぐに門下生にしてください! と手紙を書いた。
漱石は、気づいていたのだろう。
百閒の中に巣食う、とりとめのない死への不安。
それこそが、文学の源だと見抜いたに違いない。
晴れて漱石の門下生になった百閒にとって、漱石先生は、絶対的なものであり、面と向かっては口もきけない存在だった。
ただ、百閒は、そこに父を見た。
どんなことも許してくれる、あったかい父の手のひらを思い出した。
同じ門下生で、とりとめのない死への不安を抱いた芥川龍之介が、若くして自らの命を絶ったのとは対照的に、百閒は、81歳、老衰で亡くなる。
彼には、漱石のように、ユーモアと皮肉で日常を笑う才覚があった。
そして、大好きな「文章を書くという仕事」に、命を燃やした。
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