第十四話ひとに助けられる
彼が軽井沢を訪れたのは、昭和6年の夏、菊池寛に連れられてきたのが最初だと言われています。
その後、彼が37歳の時、今度はひとりで、芥川龍之介や室生犀星が愛した『つるや旅館』に泊まろうとやってきたと言います。
しかし、つるやは、満室。番頭は丁寧に詫びをいい、藤屋という旅館を紹介しました。
川端が藤屋に行ってみると、一室しか空いていません。
しかも、その広い部屋には学生がひとり泊まっていて、相部屋はどうかと持ちかけられました。
川端は「いいよ、それで」とにこやかに承諾。
翌朝、宿泊したのがあの川端康成だと知って旅館中、大騒動。
学生も驚いたと言います。
ぎょろっと見据える大きな目。無口で無愛想。
そんなイメージの川端康成にも、気さくな一面があったのです。
彼は軽井沢をたいそう気に入り、のちに別荘を購入します。
名作『雪国』がとった文学賞の賞金をその資金にあてたのです。
夏の間、避暑で過ごす軽井沢の空気を、川端は愛しました。
彼の別荘には、いつもたくさんの来客があったと言います。
決して人付き合いがうまい人間ではない彼のもとに、ひとが集う理由。友人や同志の笑顔を見て満足そうに腕を組む彼の姿には、彼が長い年月をかけて得た、人生のyesが見え隠れします。
作家、川端康成が生涯をかけて大切にしたものとは・・・。
作家、川端康成は、1899年、大阪に生まれた。
早産で虚弱。この世に生まれてきたのが奇跡だった。
開業医だった父、栄吉(えいきち)は、川端が二歳のとき、肺病で亡くなる。翌年には母、ゲンも同じ病でこの世を去った。
3歳にして、両親を亡くした川端は、祖父母に預けられた。
「自分もきっと、そう長くは生きられない」
そんな思いが、幼い川端の胸に深く刻まれた。
小学校に入学しても、体は弱く、小さかった。
ひとの群れが怖い。同級生が迎えに来ても、ふとんをかぶり、居留守をつかった。
学校には行かず、庭の樹にのぼり、樹の上で本を読んだ。
そんな川端を優しく見守ってくれた祖母が亡くなる。
離れ離れになっていた4歳年上の姉の芳子も、13歳で死んだ。
目の見えない祖父との二人暮らし。
祖父の代わりに川端は、世の中を、日常を凝視することを覚えた。
祖父は、川端には他の子供にはない才能があると直感した。
画家になることをすすめる。でも川端は文学に傾倒していった。
祖父は、本を買うお金に糸目をつけなかった。
そのせいで、食事は汁ものと梅干だけ。
それでも川端は本を読み続けた。
でも時々、さみしさに耐えかねて、祖父を家に残し、同級生の家に遊びにいくようになる。
暗い家に帰るとき、川端の心は祖父への申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
その祖父も、彼が16歳のときに亡くなる。
川端康成は、天涯孤独の身の上になった。
作家、川端康成は、祖父の死にも、泣かなかった。
まわりのものが彼を哀れんで泣くのを見ても、弱みを見せなかった。
誰かの世話を受けることでしか生きられない自分。
孤児であることに卑屈になる自分。
ひとびとの哀れみをうとましく思う自分。
そんな思いを、彼は小説にした。
生命力が虚弱な家系に生まれたことを、呪うときもあった。
彼は随筆にしたためる。
「弱い木の梢のように自分が立っていることを感じている」
他人の庇護のもとで生きる。
彼はあることを心に決めた。
「悪口やわがままを言わない。自分はひとりでは生きていけないのだから、全てのネガティブな想いを飲み込む」。
彼は、無口になった。
作家、川端康成は、たくさんのひとたちの善意や優しさを得て、成長した。
親戚や同級生、知人、友人に支えられ、彼は進学し、小説を書く道を歩むことができた。
孤独な学生が旅芸人の一座と触れあい、踊り子に心癒される、『伊豆の踊子』に描かれた他人の優しさを享受する姿は、そのまま、川端につながる。
そんなふうに、他者からのぬくもりで生きてきたからこそ、彼は後進の発掘に積極的だった。
難病に苦しむ男を文壇に押し上げた。
自分の印税で若く貧しい作家を養った。
どんな要求にもNOを言わず、二つ返事で引き受けた。
『今、自分があるのは、自分ではない誰かのおかげ』。
そんな哲学が、彼の人生を貫いていた。
定宿だった旅館が火事に会い、小説を書く場所を失った堀辰雄に、自分の別荘を使うようにと申し出た。
掘辰雄は『風立ちぬ』の最終章を、川端の別荘で書き上げることができた。
ある夜、川端家に泥棒が入った。
寝床にいる川端と泥棒の目が合う。
泥棒はこう言った。「駄目ですか?」
川端は、無言でうなづいた。心でこう言った。「いいよ」。
自分が持っているものは、惜しげもなく差し出す。
命を削って書いた小説。
そうして稼いだ金も、返ってくるあてなどなく貸した。
彼は、自分ひとりで自分にyesと言えなかった。
いつも誰かに問うていた。
「私は、大丈夫か?生きていて、大丈夫か?」
彼は、ひとに助けられ、ひとを助けた。
閉じる