第二百五十四話まず人として生きる
この街に生まれ、99歳で亡くなるまで、生涯現役の作家として活躍した小説家がいます。
野上弥生子(のがみ・やえこ)。
実話をもとにした問題作『海神丸』や、戦争に傾いていく時代に抗う青年の苦悩を描いた『迷路』、女流文学賞を得た『秀吉と利休』など、重層で骨太な作品群は、のちの作家たちにも多くの影響を与えました。
彼女の流儀は、小説家である前に、まず、ひととしてどう生きるかでした。
いい作品を書くためであれば、なりふり構わず破天荒に生きるという無頼派とは、一線を画したのです。
ただひたすらに規則正しい生活をおくり、母として3人の息子を育て上げました。
晩年のインタビューでは、こんなふうに答えています。
「私を、小説家、作家と呼んでくださるのですが、私は今も、自分が作家だと名乗るのをおこがましいと思っているのです。
まだまだ、修業が足りません。まだまだ、作家と呼ばれるには足りません」
臼杵市にある野上弥生子文学記念館は、彼女が暮らした生家の一部を改装したもので、少女時代の勉強部屋が展示されているほか、多くの遺品に出会うことができます。
中でも、彼女の師匠、夏目漱石からの手紙は、貴重な資料です。
漱石は野上の作品に対する感想と共に、こんなアドバイスをしています。
「美文的なものを書き、漫然と生きず、文学者として年を取ることをおすすめします」
ひととしてまっとうでありながら、文学者を貫いた作家・野上弥生子が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
今年生誕135年、没後35年を迎える女流文学の文豪・野上弥生子は、1885年5月6日、現在の大分県臼杵市に生まれた。
臼杵は、穏やかな入り江を有する漁業や造船の街。
そして、醤油や味噌の醸造どころでもあった。
白壁の城下町は歴史の重みを受け継ぐとともに、港から西洋のさまざまな文化が入ってくる不思議な街だった。
野上の実家は、醤油の醸造元。裕福だった。
家ではたくさんの従業員が働き、ひとの出入りも多かった。
幼い彼女は、家の中の床の間や襖や袋戸に画かれた絵を見るのが好きだった。
中国絵画の影響を受けた南画。
そこに描かれているのは、美しい自然と寄り添う風流な家。
家では唐人が茶をたてたり、琴を弾いている。
質素で、揺るぎがない。
誰もいない座敷で座布団にちょこんと座り、その絵をじっと眺めているうちに、まるで自分も滝の音や川のせせらぎを聴いているような気持になった。
いつか、自分もこんな家を持ちたい。
小さくていい。こんな家で暮らしたい。
それが少女の夢になった。
99歳まで現役作家として書き続けた野上弥生子にとって、野上豊一郎(のがみ・とよいちろう)と結婚したことは、人生の大きな転機になった。
上京して明治女学校に入学した弥生子は、本郷にある伯父の家に下宿。
英語の家庭教師をしてくれたのが、豊一郎だった。
彼は、2学年上の、同じ臼杵出身。
早くから文学に目覚め、第一高等学校、東京帝国大学と、夏目漱石に師事した。
まもなく夫となった豊一郎から、文学の仲間のこと、漱石のことなどを聞く。
ワクワクした。
文章を書くことで人生と向き合えるなんて、こんなに素晴らしいことはない。
家事の合間に少しずつ、小説を書くようになった。
あふれてくるアイデア。
想像力は絶え間なく彼女の頭を駆け巡る。
ある夜、自分の書いた作品を夫に読んでもらう。
柱時計の音だけが鳴る時間が過ぎて、やがて夫が分厚い原稿用紙をとんとんとそろえた。
「いいね、弥生さん、いいよ。夏目先生に読んでもらおう」
こうして野上弥生子は、漱石の推薦で『ホトトギス』という文芸誌に『縁(えにし)』という小説を発表した。
ある日、野上弥生子は、夫に呼ばれた。
「小説は、弥生さん、キミに譲るよ。僕はもう小説を書くのをやめる。これからは能の研究と英文学に人生を捧げることにするよ」
以来、夫は、執筆を応援してくれた。
ただ、家事や炊事、育児も弥生子の仕事。
それでも、弥生子は書き続けた。
体を壊しては子どもたちを育てることができないので、徹夜はしない。
無茶をせず、毎日毎日コツコツと書く。
頭のどこかに、幼い頃見た南画の世界があった。
川のほとりで小さな家に住む。
茶をたて、琴を奏でる暮らし。
茶や琴の代わりに、自分は小説を書いているのだ。
この小さな家での暮らしは、守りたい。
守ってこその、小説だ。
声高に男尊女卑を訴えることもしなかった。
ただ、知識と教養を持ちなさいと後進に伝えた。
怒鳴っても、わめいても、何も変わらない。
大切なのは、精神的に自立すること。
そのためには、知識と教養が必要だ。
一方で、知識人の葛藤や挫折も描いた。
理想と現実は、永遠のテーマ。
まず大切なのは、日々の暮らし。
ひととしての生活をないがしろにしないこと。
作家・野上弥生子が、なぜ100歳近くまで書き続けることができたのか。
それは彼女が、生活を重んじ、小説家としてより、人間としてまっとうに生きたいと願ったからに違いない。
【ON AIR LIST】
THE NEARNESS OF YOU / James Taylor
OUR HOUSE / Crosby, Stills, Nash & Young
THE COLOR OF ROSES / Beth Nielsen Chapman
NEVER CRY BUTTERFLY / 竹内まりや
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