第三百六十九話語るな、ひたすら描け!
グスタフ・クリムト。
代表作『接吻』は、斬新で、妖艶な作品です。
女性を抱きすくめる男性の顔は見えません。
女性は、首を直角に曲げ、目を閉じ、恍惚の表情を浮かべています。
金色のマントに抱かれているような二人。
まるで、日本の屏風絵のようです。
抽象的な背景が、二人の愛に永遠性を加え、華やかさと静けさが共存しています。
抽象と具体。平面と立体。
二つの相反するものを一枚のキャンバスにとどめることで、クリムトは、誰もやったことがない黄金様式を確立しました。
しかし、そこにたどり着くまで、彼には苦難の壁がいくつも立ちはだかり、そのたびに絶望し、失意のどん底に叩き落されたのです。
その最たる出来事は、ウィーン大学講堂の天井画の依頼でした。
「医学」「哲学」「法学」の3つを表す絵画を描いてほしい。
大学関係者は、誰もが保守的で文化的な絵を想像していました。
ところがクリムトが描いたのは、革新的、前衛的なものでした。
立体や遠近法を無視した構図。
ギリシャ神話からモチーフを得た、どこか官能的な匂いのする女性の絵。
「人間の知性なんて、どうでもいい。そんなものに振り回されるから、ほんとうの愛に気づかないんだ」
クリムトのメッセージを感じとった大学側は、「愚作だ! この天井画は、我が大学にふさわしくない!」とクリムトを全否定したのです。
それでも彼は、一歩もひかず、無言でその仕事から姿を消しました。
「画きたいものを画いてだめなら、何も言うことはない」とでも言うように。
一貫して、クリムトは女性を描き続けました。
自身の運命的な女性、いわゆる、ファム・ファタル。
その手法は、象徴派、印象派、デカダン派、アールヌーボーなど多岐に渡りました。
「誰かにほめられたくて、絵を画くわけではない。ただ、画きたいから画く。だから、言い訳はしない」
そんなシンプルな姿勢は、彼の作品に普遍性をもたらしました。
いまなお、世界中のひとを魅了してやまない孤高の画家、グスタフ・クリムトが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
世紀末の画家、グスタフ・クリムトは、1862年7月14日、オーストリア帝国ウィーンバウムガルテンに生まれた。
父は、金や銀の細工をする職人だった。
幼い頃から、金箔をほどこす父を見る。
一瞬で世界が変わる魔法は、日々の細かい作業に裏打ちされていた。
母は、自由奔放なパフォーマー。
舞台でミュージカルを演じる女優だった。
緻密な作業に明け暮れる父と、そのときの気分で踊り、歌う母。
両親の遺伝子は、クリムトの中で同時に育っていく。
本人も知らないうちに…。
幼い頃から絵を画くのがうまかったクリムトは、同じく絵を画くのが大好きな2歳違いの弟と、二人でスケッチをするのが楽しみだった。
何でも兄の真似をする弟が可愛くて仕方ない。
家は貧しかったが、絵を画いているときは幸せだった。
14歳のとき、ウィーン工芸美術学校に入学。
そこで彼を待っていたのは、ひたすらデッサンを画く練習。
先生は、自由に絵を画くことを許さなかった。
何百枚ものデッサンは、クリムトに基礎的な芸術の体力を与える。
父が持つ緻密さ繊細さという花が、彼の中で開花した。
やがて弟も美術学校に入学。
友人のフランツと3人で、チーム「芸術家カンパニー」をつくった。
劇場やホール、建物の壁や天井の装飾を請け負う仕事を始める。
的確で堅実な仕事ぶりは評判を呼び、3人は独立。起業した。
全てが順調に見えたが、死神はゆっくりと、クリムトの傍らに姿を見せることになる。
1892年、グスタフ・クリムトが30歳のとき、父が亡くなる。
ほどなくして、弟も病に伏す。
青白い顔の弟は、病床でクリムトに言った。
「兄さん、最近思い出すのは、小さい頃、兄さんと二人でチラシの裏に絵を画いていたときのことなんだ。
あのときは、好きなものを好きなように画いてたよね。
この頃のボクたちは、依頼や発注に対応するばかり。
まあ、しょうがないんだけどね。
ねえ兄さん、ボクはさ、画きたい絵を画きたいんだ、ほんとうは」
弟は、あっという間に天に召された。
ショックだった。
ずっと一緒に生きていくと思っていた、最愛の弟。
「芸術家カンパニー」は、弟の死去により、一気に活力を失う。
仕事は減り、解散。
クリムトは、失意のどん底に落ちる。
一方で、自分も、父のように、弟のように、早く命を亡くすのではないかという不安に、眠れなくなる。
酒に浸り、複数の女性と共に過ごしても、気持ちは晴れない。
ある夜、弟の声が蘇った。
「ねえ兄さん、ボクはさ、画きたい絵を画きたいんだ、ほんとうは」
グスタフ・クリムトは、ウィーン分離派を立ち上げた。
ウィーン分離派とは、体制からの離脱。
かかげた文言は、「時代にはその時代の芸術を、芸術には自由を」。
クリムトは、従来の古い体質を打破すべく、新しい芸術を目指した。
彼が言う芸術とは、高尚な、絵に画いた餅ではない。
彼は言った。
「どれほど小さな、あるいは、一見無意味に思える人間の努力も、全て芸術につながっています。
ウィリアム・モリスの言葉によれば、たとえ、どんなにささやかな仕事でも、完璧に仕上げれば、それは美しい! この世を讃える美しさを持っているのです」
グスタフ・クリムトは、弟の分まで生きてやろうと思った。
誰が何を言っても、好きな絵を画く。
ただ、言い訳はしない。
何も語らず、ただ、好きなように描く。
弟の忘れ形見、娘のヘレーネの横顔を画いたとき、気づいた。
自分にとって、女性は最も理解不能な「驚き」の対象だ。
ならば、女性を描き続けることで、僕は絵の神様に近づこう。
クリムトは、もう迷わなかった。
芸術の光が、彼を照らした。
【ON AIR LIST】
スウィート・ドリームス / ユーリズミックス
交響曲 第7番 ホ長調~第3楽章 / ブルックナー(作曲)、オトマール・スウィトナー(指揮)、シュターツカペレ・ベルリン
あなたの傍では心おきなく~5つの歌より / ライナー・マリア・リルケ(作詞)、アルマ・マーラー(作曲)、小川里美(ソプラノ)
キッス・フロム・ア・ローズ / シール
★今回の撮影は、「愛知県美術館」様にご協力いただきました。ありがとうございました。
なお、愛知県美術館所蔵の『クリムト《人生は戦いなり(黄金の騎士)》』は現在、他館への貸出予定となっています。
愛知県美術館では、現在『国際芸術祭「あいち2022」STILL ALIVE 今、を生き抜くアートのちから』を開催中です。
展示の詳細など、詳しくは公式HPよりご確認ください。
愛知県美術館 HP
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