第三百八十八話実行あるのみ
島村抱月(しまむら・ほうげつ)。
抱月が旗手となった新劇活動とは、歌舞伎や新派に対抗する、型にはまらない、人物の感情や苦悩に寄り添った演劇の潮流です。
お手本は、文豪・トルストイ、チェーホフ、イプセン、そして、シェイクスピアでした。
抱月は、師匠である坪内逍遥とともに文芸協会を立ち上げ、大正デモクラシーの流れにのって、翻訳劇を成功に導いていったのです。
島根県浜田市にある「島村抱月生誕地顕彰の杜公園」には、抱月の胸像とともに、彼の運命を象徴する、ある唄が吹きこまれたミュージックボックスがあります。
その唄とは、トルストイの『復活』という舞台の中で、松井須磨子(まつい・すまこ)が歌って一世を風靡した名曲『カチューシャの唄』。
抱月が作詞したとされる「カチューシャかわいや わかれのつらさ」というフレーズは、流行語になり、新劇活動の後押しを担いました。
しかし抱月は、妻子がありながら、看板女優だった須磨子と恋に落ち、文芸協会を脱退。
自ら、劇団・芸術座を結成します。
当時、大流行していたパンデミック「スペイン風邪」にかかった須磨子を看病し、罹患。
結局、その病がもとで、47歳でこの世を去るのです。
抱月の信条は、「実行すること」にありました。
『序に代えて人生観上の自然主義を論ず』に、こんな文章を綴りました。
「人生の中枢意義は言うまでもなく実行である。
四十の坂に近づかんとして、隙間だらけな自分の心を顧みると、人生観どころの騒ぎではない。
わが心は依然として空虚な廃屋のようで、一時凌ぎの手入れに、床の抜けたのや屋根の漏るのを防いでいる。
継ぎはぎの一時凌ぎ、これが正しく私の実行生活の現状である」
抱月は、継ぎはぎの一時凌ぎこそ人生の真髄であり、だからこそ、前に進むために、実行することの大切さを説いたのです。
演劇界に新しい舞台を開いてみせた賢人・島村抱月が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
明治・大正期の劇作家・島村抱月は、1871年2月28日、島根県小国村、現在の島根県浜田市に、佐々山一平(ささやま・いっぺい)の長男として生まれた。
近くを小国川が流れ、遠く二子山をのぞむ風景は、生涯、抱月の心に残った。
実家は鉱山業を営んでいたが、父の代で破産。
貧しかった。
物心つくとすぐに家の手伝い、農繁期には近くの田畑で泥だらけになって働く。
あまりに貧しく、学校にもいけない。
ただ、母は思った。
「このままでは、この貧しさから逃れることができない」
朝、暗いうちから起き出し、夜は内職をして、なんとか抱月を学校に通わせる。
近くに住んでいた桑田という医者は、好奇心旺盛な抱月に読み書きを教えた。
10代になると、学校に行きながら、近くの裁判所で働く。
検事の島村は、抱月の頭の良さに早くから気づいていた。
「もしよければ、ウチの養子にどうだろうか」
そう島村から提案を受けたとき、父は猛反対したが、母は畳に額をつけながら「ぜひ、お願いします」と言った。
島村のもとに行けば、我が子にもっと多くの学びの場が与えられる。
母もまた、息子の非凡な才能を知っていた。
一方で、抱月もまた、自分がいなくなることで家計が楽になると思った。
「ぜひ、島村家に行かせてください」
このひとことが、彼の運命の扉を開いた。
島村抱月は、島村の援助を受け、東京専門学校、のちの早稲田大学に入学した。
校内は、新しい文芸、芸術についての議論であふれていた。
抱月は、できたばかりの文学科で、二人の恩師に出会う。
ひとりは、日本のカントと呼ばれた哲学者・大西祝(おおにし・はじめ)。
もうひとりは『小説神髄』で有名な坪内逍遥。
大西の講義に驚く。
彼は、しぼりだすような胸に響く声で語った。
「すべては、良き心、良心なんです。
哲学は、ひとを、世界を変えます。
ただし、実践しなくちゃいけません」
坪内の言葉に、ふるえた。
「勧善懲悪を捨てること。ひとの情を描き切る覚悟が大事なのです」
抱月は、二人に出会うことで、文芸・芸術の世界に身を投じることを決める。
大西も坪内も、抱月の熱心さや才能に触れ、彼を育てたいと願った。
『早稲田文学』という雑誌の記者に任命。
抱月は、もらったわずかな金も、ふるさとの母に仕送りした。
働きながら勉学に励んだ抱月は、東京専門学校を首席で卒業した。
彼の前には、大学教授という道が真っすぐ延びていた。
島村抱月は、読売新聞の記者を経て、母校の文学部の講師になった。
イギリス、ドイツへの留学をすすめられ、3年間、海外で学ぶ。
帰国後は、早稲田大学の教授になり、学者、指導者としての道が約束された。
34歳にして、異例の出世だった。
しかし、これでいいのか…という思いが頭をもたげる。
幼い頃から、誰よりも苦労して学問を続けた自負はある。
その最終目標到達点が、この場所だったのだろうか…。
たくさんのひとに助けられてきた。
多くのひとの思いを受けてきた。
気がつくと、そのひとたちへの恩返し、あるいは、自分ではなく、そのひとたちの理想に近づこうとしていなかったか。
人生で大切なのは、あくまで、自己、自分である。
誰かの理想のために生きるのは、機械と一緒だ。
そんなとき、ひとりの女性に出会った。
松井須磨子。
自分と同じように貧しい幼少期を過ごした彼女は、自由だった。
低い鼻が嫌で、当時としては珍しい美容整形を受ける。
誰が何を言おうが、かまわない。
あっけらかんと笑い飛ばす。
動くこと、思ったら実行すること。
須磨子に会うことで、抱月は自分を解放することに目覚めた。
演劇はいい。
何より目の前に観客がいる。
理想も大義名分も吹き飛ばす、「実行」の基本がそこにあった。
島村抱月は、言った。
「実行の基本、それは、自分を愛する、ということだ」
【ON AIR LIST】
I'll Be Around / The Spinners
ソルヴェイグの歌 / グリーグ(作曲)、イプセン(作詞)、アンサンブル・プラネタ
カチューシャの唄 / 松井須磨子
(If Loving You Is Wrong) I Don't Want To Be Right / Luther Ingram
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