第二百七話心の痛みを大切にする
三方を山に囲まれ、南に瀬戸内の穏やかな海を抱いたこの街を終生愛した映画監督がいます。
浦山桐郎(うらやま・きりお)。
吉永小百合を育て、大竹しのぶを見出した、女優育ての名手。
生前、まわりのひとに、「オレは生きている間に、一ダースの映画を撮るのが目標なんだ」と語っていましたが、54年の生涯で撮った映画は、9本でした。
でも、その9作品全てに、文字通り心血を注ぎ、魂を込め、完全主義を貫きました。
デビュー作『キューポラのある街』は、新人監督が撮ったにも関わらず、キネマ旬報社の年間ベストテンの第二位にランクイン。
主演の吉永小百合はブルーリボン主演女優賞を受賞し、カンヌ映画祭ではフランソワ・トリュフォーが大絶賛しました。
撮影に入る前、浦山は主演の吉永小百合にこう尋ねたと言います。
「キミ、貧乏ってどういうことか、わかるかい?」
吉永は入院開けで貧血状態でしたが、荒川の土手を走らされました。
何度も、何度も。しかも、全力疾走で。
その激しすぎる演技指導は、女優を追い詰めます。
『私が棄てた女』という映画の主演を務めた小林トシ江には、自分の家の近くに住まわせ、女中をさせました。
ぶざまでプライドのない女を演じさせるために、彼女の自尊心をとことん傷つけたのです。
執拗な演技指導に、小林は女優としての自信を無くし、現場を逃げ出して自殺未遂をはかろうとしました。
それでも映画を撮り切り、『私が棄てた女』は、浦山の最高傑作と言われる作品になりました。
彼は、弟子にこんな言葉を言ったといいます。
「いいか。哀切であることは、誰でも撮れるんだ。問題は、それが痛切であるかどうかなんだよ。痛みだ、痛みをどれだけわかるか、痛みを撮れる監督になれ!」
映画監督・浦山桐郎が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
吉永小百合を大女優に育てた映画監督・浦山桐郎は、1930年、兵庫県相生市に生まれた。
父は、地元の播磨造船所に勤めていた。
戦前からの造船所には、全国から働き口を求めてきたひと、半島から海を渡ってきたひと、かつて港で働いていたひとなど、さまざまな人間が働いていた。
そんな中、父は文学を理解し、詩を詠んだ。
相生市の、市の歌の歌詞を書く才人だった。
浦山の母は、彼を産むと同時に、息絶えた。
母の妹が後妻に入る。
大きくなるまで、浦山はこの義理の母を、本当の母だと思って育つ。
住まいは、造船所の社宅。
町には、いろんな境遇の子どもがいた。
素足にボロボロの服の子どももいれば、蝶ネクタイをしてジャケットを着た子どももいた。
浦山は、そんな日本の縮図のような風景を、じっと見ていた。
リアカーで夜逃げする、少女の瞳を覚えていた。
父は、言った。
「桐郎、おまえは、あれだ、東大に入れ。東大に入って役人になれ。くれぐれも、芸術なんぞにうつつをぬかすな」
姫路の中学を出て、高校に入ったとき、父は自殺した。
自宅近くの崖から身を投げた。
遺書はなく、死んだ理由はわからない。
浦山桐郎は、初めて人生の痛みを知った。
映画監督・浦山桐郎は、父の死とともに、母の親戚を頼り、名古屋に移り住んだ。
このときには、自分の母が本当の母ではないことも知っていた。
人生は、ままならない。人生は、理不尽なものだ。
そんな思いが彼の胸に刻まれる。
名古屋大学文学部仏文科に進学する。
父が生きていたら、文学部に行くことなど、許してくれなかっただろう。
映画が好きだった。
暗闇の中でフィクションに身を委ねているときが、いちばん幸福だった。
自分には、父も母もいない。
誰も自分を心から愛してくれるひとなどいない。
絶対的な愛など、銀幕の中だけのことだと思った。
義理の母には、特別な感情があった。
母であり、どこか、ひとりの女性として意識している自分がいて、戸惑った。
卒業後は、映画会社を受けた。松竹の助監督試験。
筆記は満点に近かったが、身体検査で落とされる。
そのときの試験官の鈴木清順が、試験後、声をかけてくれた。
「キミさあ、もしよかったら、日活、受けてみたらどうかな」
しかし、不合格。
ただ、松竹が補欠合格になり日活合格を蹴った学生がいた。
後に『男はつらいよ』を撮る、山田洋次だった。
おかげで、日活に補欠合格。
念願の映画監督への道が開けた。
大竹しのぶを見出した映画監督・浦山桐郎は、デビュー当時から、一切の妥協を許さなかった。
まるで自らの人生がそう長くないことを知っているかのように、一作一作にとことん向き合った。
撮影現場には、何度も何度も通った。
女優に厳しくする分、自分にも厳しかった。
制作に6年かける。
さすがに会社から、扱いづらい監督のレッテルを貼られた。
それでも、自分を曲げない。
大切なのは、思いが痛みまで降りていくことだ。
窮地に立たされるといつも思い出す。
母が本当の母ではないとわかったときのこと。
父が死んだと知らされたときのこと。
痛みを知れば、痛みを描くことができる。
痛切は、必ずひとの心に刺さる。
浦山は、生涯、自分の痛みから目をそらさなかった。
兵庫県の相生の街が好きだった。
そこには、自分の幸福が詰まっていた。
父が笑い、母の笑顔があった。
浦山桐郎は、相生湾をこんなふうに語った。
「母親の子宮のように見える」
【ON AIR LIST】
KING OF BROKEN HEARTS / Ringo Starr
LIFE'S A LESSON / Ben Sidran
IN MY OWN DREAM / Karen Dalton
A PLACE CALLED HOME / Tierra
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