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村上RADIO 特別編~小澤征爾さんの遺した音楽を追って~

村上RADIO 特別編~小澤征爾さんの遺した音楽を追って~

こんにちは、村上春樹です。今日は村上RADIO特別編として、この2月に88歳で亡くなられた指揮者・小澤征爾さんを偲んで、彼の指揮した音楽(レコード)をかけ、僕の知っているその人となりについても、少しばかり語ってみたいと思います。
おかけする音楽はおおむね年代順になっています。デビュー当時の録音から、最晩年のものまで、できるだけ順を追って辿(たど)っていきたいと思います。2時間弱の番組ですので、残念ながら、なかなか1曲全部をおかけすることはできません。でも小澤征爾という希有(けう)な指揮者の音楽的足跡をおおまかにでも辿れるように、うちにある音源から一生懸命セレクトしてみました。

小澤征爾さんは紛(まぎ)れもない天才だと僕は確信しているんだけど、そう言ったら話はそこで終わっちゃうんですよね。「あの人は天才だ」ピリオド、みたいに。じゃあ、彼のどこがどう天才なんだと言われても、僕としてはどこから手をつければいいのか見当もつきません。天才にはよくあることだけど、とてもいろんな多彩な側面をそなえた人でしたから。
でも、僕のあくまで個人的な印象を言わせてもらえれば、征爾さんはまず第一に、基本的にはとても人なつっこい人だったですね。音楽的にはもちろん厳しい側面もあったようだけど、人と人との交わり、人間関係の中から少しでも善きものを取りだしていこう、吸いあげていこうという、ポジティブな姿勢は常に健全に保たれていました。

第二に、びびらない人だったということかな。物怖じしないというか、厚かましいというか、チャンスが与えられれば、決してそれをしくじらない人でした。ものごとの流れを読んで、それに合わせていく対応力の鋭さも並みではなかった。これって、天才にはたぶん必要な資質ですよね。

そして音楽に対してはどこまでも真剣で、誠実な人でした。妥協みたいなものは一切なかった。形からではなく、気持ちから、心から、すっと音楽に入っていける人でした。
征爾さんの音楽を聴いていると、そういう彼の優れた面が生き生きと感じられて、つい嬉しくなってしまいます。
Telemann: Concerto In D Minor For Oboe, Strings And Continuo III - Adaio; IV - Allegro
Harold Gomberg
The Baroque Oboe
Columbia Masterworks
最初にテレマンの「オーボエ協奏曲 ニ短調」の3、4楽章をかけます。征爾さんがバロック音楽を指揮するのってかなり珍しいのですが、このアルバムにはテレマンとヴィヴァルディとヘンデルのオーボエ協奏曲が4曲取り上げられています。オーボエはハロルド・ゴンバーグ。
これは小澤征爾さんの長いキャリアの中で、最も初期に吹き込まれたアルバムの1つです。僕がうちにあるこのレコードを見せたら、「おお、よくこんなものを見つけ出してきたねえ」と喜んで、懐かしがっておられました。

ハロルド・ゴンバーグはニューヨーク・フィルの首席オーボエ奏者で、彼が主宰する団体がコロンビアにレコーディングしたときに、以前ニューヨーク・フィルの副指揮者をしていた、まだ無名の小澤さんを抜擢し指揮を任せたんです。 きっと「こいつ、見所があるわい」と思われたんでしょうね。実際、初レコーディングにしてはとても落ち着きのある、練れた好演になっています。

小澤さんの演奏するテレマンって、そういえば僕はこれしか聴いたことがありませんね。貴重です。1965年の録音です。テレマン「オーボエ協奏曲 ニ短調」の3、4楽章。
Marche Au Supplice
Seiji Ozawa-Toronto Symphony
Symphonie Fantastique
CBS Masterworks
第4楽章: 断頭台への行進
小澤征爾指揮 サイトウ・キネン・オーケストラ
奇蹟のニューヨーク・ライヴII ベルリオーズ:幻想交響曲
デッカ
ベルリオーズの「幻想交響曲」作品14は征爾さんが愛した作品で、生涯を通して何度も繰り返し録音しています。最初は1965年のトロント交響楽団、次は1973年のボストン交響楽団、それから2010年のサイトウ・キネン・オーケストラ。そしてサイトウ・キネンとは2014年にもう一度吹き込んでいます。
今日はその中から最初のトロント交響楽団との演奏と、2010年のサイトウ・キネンとのニューヨークでのライブを聴き比べてみましょう。おかけするのは「断頭台への行進」です。最後に首がばさっと切られるやつですね。
まずトロント交響楽団とのものを聴いてみてください。30歳になったばかりの、ほとんど怖いもの知らずの若者が、ベルリオーズの大曲に挑みます。

トロント交響楽団との演奏、とても自然というか、音楽の流れをそのまますらりと手中に収めた見事な演奏ですね。この人はこの頃から、音楽で物語を語ることに長けた人だったのだなと感心してしまいます。そういうことができる人ってなかなかいません。

征爾さんは2010年の始めに食道がんが見つかり、全摘手術を受けます。でもその年の夏には早くも復帰して、12月にはサイトウ・キネン・オーケストラと共に渡米して、カーネギー・ホールでのコンサートをおこなっています。当然身体は弱っていますし、かなりの強行軍ですね。でもそんなことは微塵(みじん)も感じさせない力強い演奏を繰り広げます。ライブ録音で聴いてください。サイトウ・キネン・オーケストラとの演奏、「断頭台への行進」。

2010年のサイトウ・キネン・オーケストラとの演奏。トロントとの演奏に比べると表情の彫りが深く、音の幅が広くなっていることがおわかりいただけると思います。ライブ録音ということもあるんだろうけど、とてもパッショネイトな演奏です。普通、音楽家って年齢を重ねるにつれてスタイルが枯れてくるものなんだけど、征爾さんの場合、そういうことってほとんどないみたいですね。ある場合には、逆により若々しく、より大胆になってくる傾向さえあります。すごいですね。
Janáček: Sinfonietta I. Allegretto II. Andante
Seiji Ozawa - Chicago Symphony Orchestra
Janáček: Sinfonietta Lutosławski: Concerto For Orchestra
Angel Records
次はヤナーチェックの「シンフォニエッタ」1、2楽章を聴いてください。僕は『1Q84』という小説の中にこの演奏を登場させまして、征爾さんに「春樹さんが小説に書いてくれたおかげで、僕のレコードが売れてよかったよ。ありがとう」と礼を言われたことがあります。まあ、何かのお役に立てたとすれば僕としても嬉しいですが。
地味な曲であまり聴かれることもないんだけど、なかなか素敵な、印象深い音楽です。演奏はこの征爾さんのものが今のところベストではないかと思うのですが、いかがでしょう?

1964年、小澤さんはシカゴで夏に催されるラヴィニア音楽祭の指揮者に急遽抜擢され、成功を収めます。それが縁でシカゴ交響楽団と親しくなり、何枚かの録音を残していますが、これもその1枚です。フリッツ・ライナーにがちがちに鍛え上げられた名門オーケストラは、東洋からやって来た若い才能との出会いを愉しんでいるように僕の耳には聞こえます。



今からおかけするのは、2011年7月に僕=村上が小澤征爾さんにインタビューしたときの録音です。場所はパリのアパートメントの一室。僕はその前の週ずっと、スイスのロール(Rolle)という小さな町で、ヨーロッパ各地から集まった学生オーケストラのメンバーと一緒に、特別合宿に参加していました。そこで征爾さんを中心とした何人かの一流のプロ奏者が教師となって、音楽家を目指す優秀な学生たちをみっちりと鍛え上げるんです。そして最後にその仕上げとしてパリでコンサートを開く。そのようなプロセスを目の当たりにするのは、僕にとってずいぶん貴重な体験になりました。
そのパリでのコンサートの翌日に、このインタビューはおこなわれました。スイスでの合宿の多くの部分は弦楽四重奏というかたちで進行していきました。そして最後の段階でみんなが合体してひとつのオーケストラになるわけです。「どうして弦楽四重奏がオーケストラの訓練の基礎になるのでしょうか?」というのが僕の質問でした。小澤さんがそれに答えます。

<パリでおこなわれた村上春樹による小澤征爾へのインタビュー>
※番組では、ヨーロッパと日本の音楽を学ぶ学生のキャラクターの違いを、パリのアパートメントで村上春樹が小澤征爾に訊いた貴重な音源を紹介



ヨーロッパの学生と日本人の学生のキャラクターの違い、ラッシュアワーの小田急線に乗せてみればわかる……というのはおかしいですね。征爾さんは一時期、時折朝の小田急線に1人で乗って病院に通っていました。しかしラッシュアワーの小田急線で隣に小澤さんがいたら、人はびっくりしますよね。実際によくびっくりされたそうです。
「でもさ、春樹さん、よくおれだってわかるよねえ」と征爾さんは言うんだけど、そんなのわからないわけがないですよねえ。
バレエ組曲<ロミオとジュリエット>作品64 第1番、第2番から
モンタギュー家とキャピュレット家 Andante - Allegro Pesante - Moderato Tranquillo - Allegro Pesante
踊り: Vivo
San Francisco Symphony Orchestra Seiji Ozawa
Tchaikovsky - Prokofiev - Berlioz Romeo And Juliet
Grammophon
小澤さんはトロント交響楽団の音楽監督を務めたあと、サンフランシスコ交響楽団の音楽監督に就任し、1976年までその地位に留まりました。これはその時代の吹き込みですが、とても印象的な名演だと思います。プロコフィエフのバレエ組曲「ロミオとジュリエット」から「モンタギュー家とキャピュレット家」そして「踊り」の楽章を聴いてください。
まだ若い頃の演奏ですが、この人の作る音楽の特徴がよく出ています。
その曲の持っているコア=中心軸みたいなものをぎゅっと掴(つか)んで、それを最後まで手離さない。自分のメッセージは怠りなく述べるけれど、決してやり過ぎない。無理に枠をはめたりはしない。音楽に自由に息をさせ、そこから自然な動きを導き出す。これは言うなれば、小澤征爾の音楽の神髄みたいなものですね。

バレエ組曲「ロミオとジュリエット」から「モンタギュー家とキャピュレット家」そして「踊り」。小澤征爾指揮サンフランシスコ交響楽団です。
Konzert Für Klarinette Und Orchester A-dur KV 622 2. Adagio
Harold Wright・ Sherman Walt Boston Symphony Orchestra Seiji Ozawa
Wolfgang Amadeus Mozart Klarinettenkonzert・Clarinet Concerto・Fagottkonzert・Bassoon Concerto
Grammophon
名手揃いのボストン交響楽団、その首席奏者たちをソリストに据えて吹き込んだモーツァルトの管楽器協奏曲集、その中からクラリネット協奏曲(K.622)を聴いてください。
高名な第二楽章、クラリネットソロはハロルド・ライト。仲間同士の演奏だけあって、隅々にまで親密な空気が漂っています。まるでファミリー・パーティーみたいに。征爾さんは微笑みを浮かべつつ、オーケストラを穏やかに優しく導いていきます。

僕がアメリカに住んでいるとき、クラリネット奏者のリチャード・ストルツマンさんがうちに来たことがあります。マサチューセッツ州のウェルズリーというところに住んでいたのですが、その近くにクラリネットを修理する職人がいて、彼はそこで楽器を修理してもらって、その帰りにうちに寄ったんだけど、「ちょっと試し吹きをしていいかな?」と言うので、「いいよ」と言ったら、うちの台所でこの二楽章をそっくり吹いてくれました。奥さんのミカさんがオーケストラ・パートを口真似で受け持ってくれました。よく晴れた日曜日の午後で、それは本当に素晴らしい体験でした。

ストルツマンさんは若いときに、サンフランシスコ交響楽団の楽団員になるための面接を受けたんだけど、そのとき音楽監督だった征爾さんに見事に落とされたんだそうです。「でもそのおかげで、ソリストとしてやっていこうと思ったんだ。だから小澤さんには感謝しているよ」ということでした。

村上春樹、小澤征爾さんのアメフトのルール説明に感心「オーケストラの練習とかも、きっとこういうふうにやって、みんなに自分の意思を伝えているんだろうな」

アメリカで暮らしているとき、征爾さんに「アメリカン・フットボールの試合を観に行こうよ」と誘われたことがあります。そのとき僕はアメリカン・フットボールのルールをよく知らなかったので、そう言うと「ルールはおれが説明してあげるからさ、大丈夫だよ。楽しいから行こうよ」と言われて、それで2人で一緒に試合を観に行きました。でもアメフトのルールってものすごくややこしいんですよね。そんなに簡単に理解できるものだろうかと危惧していたんだけど、征爾さんはなにしろ説明がうまくて、試合を観ながら「これはこう、今のはこういうこと」と細かく手取り足取り教えてくれます。その説明が的確で要を得ている。そして親切です。だから最初のクォーターが終わる頃には、だいたいのことが僕にも理解できていました。
「そうか、この人はオーケストラの練習とかも、きっとこういうふうにやって、みんなに自分の意思を伝えているんだろうな」とそのとき思いました。説明がとにかく親切でわかりやすいんです。そういうのも指揮者にとっての大事な才能のひとつだったんでしょうね。
征爾さんとは何度か一緒にアメフトの試合を観戦しました。征爾さんは長くボストンで暮らしていたから、ニューイングランド・ペイトリオッツの熱心なファンでした。アメフトの試合を観るたびに征爾さんのことをふと思い出します。

さて、小澤征爾さんが僕らに遺してくれた音楽の数々、これまでのところいかがでしたか?
後半はより新しい録音が中心になります。

今日は、今は亡き小澤征爾さんを偲んで、彼が遺した音楽をお届けしています。選曲は僕、村上春樹がおこないました。選ぶのは難しかったけど、小澤さんの指揮した音楽をまとめてじっくり聴き返していると、とてもあたたかく親密な気持ちになることができました。
さて、後半に入ります。
弦、打楽器、チェレスタのための音楽 II.Allegro
Boston Symphony Orchestra・Seiji Ozawa
Béla Bartók Music For Strings, Percussion & Celesta • The Miraculous Mandarin
Grammophon
1973年、ボストン交響楽団の音楽監督に抜擢された征爾さんが、1977年に録音したのが、バルトークの「弦、打楽器、チェレスタのための音楽」でした。ドイツ・グラモフォンはこのために録音チームをわざわざボストンまで送り込んでいます。それだけ彼に対する期待が高かったんですね。若き日の小澤征爾の才気と熱情にあふれた、瑞々しい指揮ぶりを聴いてください。さすがに名手揃いのボストン交響楽団、緊迫した演奏でそのリードに応えます。リズム感が本当に鮮やかで素晴らしいですね。聴いていてどきどきしちゃうくらいです。

征爾さんは28年後にサイトウ・キネン・オーケストラと共にこの曲を吹き込んでいまして、これもとても優れた演奏ですが、ここでは若き日の溌剌(はつらつ)とした弾けぶりを愉しんでください。バルトーク「弦、打楽器、チェレスタのための音楽」から、アレグロの楽章です。
亡き子をしのぶ歌 5.こんな天気、こんな嵐の日には
小澤征爾、ボストン交響楽団、ジェシー・ノーマン
マーラー:交響曲第7番、亡き子をしのぶ歌
PHILIPS
小澤さんは歌手の伴奏がとてもうまいんです。僕は一度、彼に質問したことがあります。「征爾さんがオペラを指揮すると、歌詞がとても聞きやすいんです。他の人だと、ときどき音がもつれて聞きづらいことがあるんだけど。何かコツみたいなものがあるんですか?」と。

彼が答えて言うには「うん、あれね、簡単なの。歌手が歌い出すときにさ、子音と母音の間にちょっと隙間があるでしょ。そこに音をすっと入れていけばいいんだよ。それだけ」
それのどこが簡単なのか、僕にはぜんぜんわかりませんが、彼の言わんとすることはなんとなく理解できるような気がしました。

マーラーの歌曲集『亡き子をしのぶ歌』から「こんな天気、こんな嵐の日には」を聴いてください。ソプラノはジェシー・ノーマン、小澤さんはボストン交響楽団を指揮します。1988年、ドイツでの録音です。
曲の性格上、歌手は感情を盛り上げて全面にダイナミックに押し出していくんだけど、オーケストラはあるときにはそれに共感するように、あるときにはそれを宥(なだ)め、癒やすように、またあるときにはそれに対抗する物語を差し出すように、音楽を自在に立体的に紡ぎ出していきます。その絡み具合がなんともいえず素晴らしいんです。
ディヴェルティメント ニ長調 K・136 第1楽章 Allegro
小澤征爾指揮サイトウ・キネン・オーケストラ
チャイコフスキー 弦楽セレナード モーツァルト アイネ・クライネ・ナハトムジーク ディヴェルティメントK・136
PHILIPS
モーツァルトの「ディヴェルティメント ニ長調 K.136」は征爾さんにとっては大事な意味を持つ曲になっています。これは彼が桐朋学園時代に、恩師である齋藤秀雄さんにみっちり念入りに叩き込まれた曲であり、征爾さんが若い学生たちを仕込むときに必ずと言っていいほどテキストとして取り上げてきた曲でした。
僕は彼がオーケストラのリハーサルをするのを見ているのが好きだったので、この曲はいやというほど聴きました。モーツァルト初期の作品で、簡潔にシンプルに書かれていて、演奏すること自体はそんなに難しくないんだけど、実は奥が深い。普通にさらっと演奏しただけでは、けっこうつまらない曲になってしまいかねません。それをいかに生き生きと深く聴かせるか、そこが肝になります。
ここでは1992年に録音されたサイトウ・キネン・オーケストラの演奏をおかけします。心のこもった演奏というのは、きっとこういう音楽のことを言うのでしょうね。欲張ったところのない、純粋に求心的な音楽です。
モーツァルト「ディヴェルティメント ニ長調 K136」の第一楽章です。
Gloria No.9 Aria Qui Sedes Ad Dexteram Patris
Gloria No.10 Aria  Quoniam Tu Solus Sanctus
Gloria No.11 Chorus Cum Sancto Spiritu
BARBARA BONNEY・KIRCHSCHLAGER・AINSLEY・AINSLEY・MILES
TOKYO OPERA SINGERS SEIJI OZAWA SAITO KINEN ORCHESTRA
Mass in B minor
PHILIPS
小澤さんはなぜかバッハを演奏する機会があまりなかったようです。だからこのサイトウ・キネン・オーケストラとの「ロ短調ミサ」BWV232の録音はとても貴重です。現代オーケストラによる演奏ですから、最近主流になっているピリオド楽器演奏によるバッハとはかなり音楽の傾向が違っています。しかしこの慈しみの気持ちにあふれる「ロ短調ミサ」は他の演奏には替えがたいものがあります。心が洗われるようです。
「グロリア」第9曲のコントラルトのアリア、第10曲のバスのアリア、第11曲のコーラスを続けて聴いてください。コントラルトはアンゲリカ・キルヒシュラーガー、バスはアラステア・マイルズ、オーボエ・ダモーレは宮本文昭さん。合唱は東京オペラシンガーズ。2000年、松本での録音です。


先日東京でジェームズ・テイラーのコンサートがありまして、行ってきたのですが、コンサートのあとでテイラーさんと楽屋で話をする機会がありました。そこで2人でずっと征爾さんの話をしていました。テイラーさんはマサチューセッツ州タングルウッドにある征爾さんの家のすぐ隣に住んでいて、とても親しかったんです。征爾さんの80歳の誕生日には、わざわざ松本まで来て、「ハッピーバースデイ」を歌ってくれたほどです。征爾さんが亡くなったことを、彼は本当に寂しがっていました。

これは征爾さんから聞いた話ですが、あるシーズン、ボストン・レッドソックスの開幕試合の日に、小澤家のテレビがたまたま故障してしまって、征爾さんがテイラーさんのうちに電話をして「これからお宅にテレビを観に行かせてもらっていいかな?」と訊いたら、テイラーさんは「僕はこれから球場にオープニングの国歌を歌いにいくから、好きにうちに来てテレビを観てくれていていいよ」と言ったそうです。しかしすごい話ですね。
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲 第2番 変ロ長調 作品19 第3楽章 Rondo. Molto allegro
マルタ・アルゲリッチ 小澤征爾指揮/水戸室内管弦楽団
ベートーヴェン: ピアノ協奏曲第2番
モーツァルト:ディヴェルティメントK136~第1楽章
グリーグ:組曲《ホルベアの時代から》
Decca
征爾さんは協奏曲の演奏に定評があり、多くの器楽奏者は彼と組んで協奏曲を演奏することを好みました。小澤さんはとても耳がいいし、ソリストの演奏に臨機応変に細かく合わせていくのが巧みです。いや、合わせるというだけでなくて、相手の「こういう音楽をつくっていきたい」というヴィジョンを察知して、そこに積極的に参加していきます。でも決して出しゃばりはしない。その辺の呼吸の具合が見事なんです。

このアルゲリッチとの演奏、僕も実際に水戸で聴いていましたが、実に素晴らしい出来でした。ベートーヴェン「ピアノ協奏曲 第2番 変ロ長調」、ここでは第三楽章だけおかけしますが、まずアルゲリッチのピアノがどきっとするくらい速いテンポで、率直きわまりなく入り込んできます。見事な切れ込みです。迫力十分、聴いていて「これはすごい」と思わず身震いがするんだけど、それに対する小澤さんの対応がまた素晴らしい。すっと受けに回って、ピアノ演奏に対する思慮深く細(こま)やかなバックグラウンドを提供していきます。主役はあくまでピアノ、でも指揮者は自分がサポート役であることを心から愉しんでいるみたいです。その姿勢に、音楽に対する慈しみがあふれています。

聴いてください。マルタ・アルゲリッチのピアノ、水戸室内管弦楽団、2019年、水戸芸術館でのライブ録音です。
交響曲第9番ニ長調 第4楽章 アダージョ:非常にゆっくり、そして控えめに
小澤征爾指揮サイトウ・キネン・オーケストラ
'マーラー:交響曲第9番
Sony Classical
今から10年くらい前のことですが、青山通りを歩いているとき、信号待ちをしている征爾さんを見かけたことがあります。彼はそこでヴィンテージ・バイクに乗った数人の男性と何やら熱心に話し込んでいました。
「あれ、征爾さん、こんなところで何をしているんですか?」と尋ねると、「いやね、これ素敵なバイクだったから、どこで買ったのとか、いくらだったとか、そういうことをこの人たちに訊いていたんだよ」ということでした。この人たちというのは、もちろん初対面の相手です。その人なつっこさに、飽くなき好奇心に、僕はあきれるというか感心してしまいました。まあ、とにかく誰にでもすぐに話しかけちゃうんですよね。
そんな征爾さんがもうこの世界にいないのかと思うと、とても淋しいです。でも彼の音楽はこうして生きています。小澤征爾さんの遺してくれた豊かな音楽世界、みなさんはどのようにお聴きになりましたでしょうか?

マーラーの交響曲 第9番 第4楽章アダージョを聴きながらこの番組を終えます。小澤征爾指揮のサイトウ・キネン・オーケストラです。
僕が今でも残念に思うのは、征爾さんの指揮するマーラーの「大地の歌」を聴けなかったことです。彼はマーラーの交響曲全曲を録音したんだけど、なぜか「大地の歌」だけは一度も録音していません。一度、「どうしてですか?」と尋ねたことがあるのですが、征爾さんは「あれは優れた歌手を集めるのがとてもむずかしくてねえ」と言っておられました。「でもそのうちにやりたいね」と。しかしそれは実現しませんでした。残念です。
それでは。

スタッフ後記

スタッフ後記

  • 村上DJは、「『良き音楽』は愛と同じように、いくらたくさんあっても、多すぎるということはない」(『小澤征爾さんと、音楽の話をする』)と書いています。この本は一年間、日本だけでなく、ホノルル、スイス、パリでマエストロにインタビューを重ねた稀有な対話集ですが、今回の村上RADIO特別版は、村上DJが心をこめて選曲した小澤征爾指揮のレコードを実際にかけながら、その深い音楽の魂に触れる貴重な2時間となりました。新緑の午後のひととき、小澤征爾さんを偲びながら、音楽で語られる豊かな物語世界を聴きたいと思います。(エディターS)
  • 小澤征爾さんの追悼番組はたくさんありますが、これほどパーソナルな追悼番組は他にないのではないでしょうか。村上さんの書斎で音楽をかけてもらいながら、小澤さんの想い出話を聞いているようでした。村上さんは少しさみしそうでした(構成ヒロコ)
  • 今回の村上RADIO特別編は小澤征爾さんと村上春樹さんの友人物語。音楽と文学、2人のマエストロの世界を堪能した休日の午後でした。(延江GP)
  • 今回の村上RADIOの特別編は、小澤征爾さんの追悼番組となりました。小澤さんと春樹さんの会話から、音に対する向き合い方、その深さと凄みを感じることができます。同時に小澤征爾さんの遺した音楽を堪能できる2時間となりました。(キム兄)
  • 小澤征爾さんと村上春樹さんがお話している様子はとても貴重でしたね。お二人とも日本が世界に誇る偉大な方々ですが、とても率直で魅力的なお人柄がよく伝わってきました。クラシックというと、なんだか敷居が高く感じてしまっていましたが、今回の放送でちょっと身近にその魅力を感じられるようになった気がします。(CAD伊藤)
  • 村上さんが選んで、紹介してくれる小澤征爾さんが指揮する音楽の数々を聴ける喜び。村上さんがたびたび言葉にされていた通り、音楽への愛と誠実さが伝わってきます。それに、村上さんの小澤さんへの尊敬、親しみ、哀悼のきもち。どれも、目には見えないそういうものがある世界はうれしい、と思いました。(スタッフ:ミカ)

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『走ることについて語るときに僕の語ること』
文藝春秋(2007年10月)文春文庫(2010年6月):音楽本ではないが、ランナーにも愛読者が多い。

村上春樹(むらかみ・はるき)プロフィール

1949(昭和24)年、京都市生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。’79年『風の歌を聴け』(群像新人文学賞)でデビュー。主な長編小説に、『羊をめぐる冒険』(野間文芸新人賞)、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(谷崎潤一郎賞)、『ノルウェイの森』、『国境の南、太陽の西』、『ねじまき鳥クロニクル』(読売文学賞)、『海辺のカフカ』、『アフターダーク』、『1Q84』(毎日出版文化賞)、最新長編小説に『騎士団長殺し』がある。『神の子どもたちはみな踊る』、『東京奇譚集』、『パン屋再襲撃』などの短編小説集、『ポートレイト・イン・ジャズ』(絵・和田誠)など音楽に関わる著書、『村上ラヂオ』等のエッセイ集、紀行文、翻訳書など著訳書多数。多くの小説作品に魅力的な音楽が登場することでも知られる。海外での文学賞受賞も多く、2006(平成18)年フランツ・カフカ賞、フランク・オコナー国際短編賞、’09年エルサレム賞、’11年カタルーニャ国際賞、’16年アンデルセン文学賞を受賞。